31

 
「おお、すごい……」

 鏡の中の自分の顔を見つめ、私は少しの感動を覚える。必要な部分しかカバーしていないせいか、バイトで動き回ったあとでも化粧のヨレがあまり見当たらなかったのだ。こればかりは、もう先に上がった安室の腕に感謝である。
 私は少し迷ったが、やはり沖矢のもとを訪ねることにした。今やめてしまったら、彼は二度と自分のことを受け入れてくれないような気がした。それに、しっかりと聞きたい。どうして、キスをしたのか。同時に、私も――自分自身の気持ちを確かめたかった。

 コンパクトとぱたんと閉じて、よしと彼のもとへつま先を向け――。住宅街を歩いているときに、ふと呼び止められた。「百花お姉さん!」と向かい側から手を振ってきたのは、見覚えのある少女と、その母親だ。本庁の前で挨拶して以来のことだ。
「マリアちゃん!」
 新しくなったぴかぴかのランドセルを揺らして、彼女はこちらに小走りで近寄った。母親も、にこやかに「お久しぶりです」と頭を下げた。

「こちらこそ、お久しぶりです」
「おかげさまで、マリアもこの通り。ずっとお礼を言いたいゆうてたんですが、中々お会いする機会もなくて」

 ――警察の方も、やっぱり個人情報は教えられないと。とマリアの母が申し訳なさそうに言うものだから、少々心に刺さった。いつだか、沖矢の連絡先を無理に聞き出したことを思い出したからだ。まあ、それはそうだ。
「良かったら、ぜひ夕食食べに来てください」
 語尾が上がるような、関西のイントネーションで誘われて、私は少し言葉を詰まらせた。マリアの話は気になっていたので聞きたいし、何度も母親が「お礼だと思って」と言うので、遠慮してお礼が先伸ばしになっても気が引ける。律儀な女性で、きっとキッチリお礼が済むまでは何度か誘いを受けることになるだろう。気持ちは、分かる。私もそのタイプだ。

 時計を見れば、午後四時ごろ。夕食には早いが、今からお邪魔したら、それほど遅くならずに帰れるだろうか。いつも沖矢の家に向かうのは六時ごろなので、時間に余裕はある。マリアの懇願するような瞳にも押し負けて、私は東尾宅にお邪魔することにしたのだ。






 それから、彼女の家を出たのが七時半。豪勢なすき焼きを振る舞ってもらって、私は胃が若干もたれるのを感じながら、軽く粉で額や頬を押さえる。遅くなってしまったが、今からでも迷惑じゃあないだろうか。一応連絡をいれておこうと、彼の番号に掛けてみる。コール音が続くだけで、彼の声は一向に聞こえなかった。寝ているか、もしかしたら入浴中か。留守番電話につながったあたりで、諦めて通話を切った。
 迷いながら、沖矢の家へと足を向けると、途中で携帯が震える。ディスプレイには今しがた連絡をした男の名が刻まれていて、私は携帯を耳に当てる。
「沖矢さん、すみません」
『――今、こちらに向かっている?』
 沖矢は前振りもなく、一言そう尋ねた。いつもの柔らかな声色よりも掠れた声だ。もしかして寝起きなのだろうかと思わせるような声だった。私はその声にやや違和感を抱きながら、「はい」と頷いた。
「あの、やっぱり迷惑でしたか」
 その言葉は、半分期待を持って掛けた言葉だった。
 沖矢が今まで「はい迷惑です」だなんて、言ったことがなかったから。どんなにこちらが気まずく思っていようと、彼は少し笑って「冗談です」――そんなふうに、言ってくれていたから。否定されるかもなんて考えが、最近は心に残っていなかったのかもしれない。

『はい。家に来ないでください』

 そう、固い声が告げた時、私は予想以上に言葉を失ってしまった。
 いつも遠回しに、確かめるように、不思議な言葉を投げる男だった。こんなに端的に、単調に、拒絶されたのは初めてだった。ショックだとか悲しいだとか、それより驚きが先に浮かんだ。
『すぐに、今すぐ家に帰るように。カミカゼだなんて幻想は考えないで』
「沖矢さん……?」
 カミカゼ、確か私がマリアを助けた日の夜に、彼が無謀な行いはするなと例えた言葉だ。ぷつりと途切れた通話が、やけに不穏で、私の背筋にいやな汗が浮かんだ。
 確かに拒絶の言葉だったが、それは拒絶とは違うような――これはただの私の勘だった。まるで警告のような。そういう風に、聞こえる。

 私はぎゅっと唇を舐めた。安室がつけてくれた、ティントリップが僅かに舌をぴりぴりと痺れさせる。

 一度は、駅の方に足を向けたのだ。
 しかし、すぐにくるりと踵を返す。不穏な気持ちが、拭いきれなかった。このまま家に帰ったら、私は後悔すると思った。もし、私が誘いを断っていたら――? もし、真っ直ぐに沖矢の家へ向かっていたら――。 そんな感情に、後悔するのは嫌だった。ユキのときは、そんな後悔ばかりを繰り返してしまったから。
 
 とにかく走った。沖矢の家に、一刻も早く。
 何もないならそれで良い! それで、嫌われてしまっても、面倒くさいと思われても良い。いつものように酒を嗜んでいる彼が、きょとんとして座っていたなら、それで良い。

 だから、とにかくその顔を見たい。いなくならないで。死なないで。
 死にたくなるだなんて、殺されたそうな声で言わないで。
 走り込んでいてよかった。冷たい空気に喉が切れそうな気もするけれど、足を我武者羅に動かせた。

「ハァ、ハッ……」

 大きな洋館を見上げる。灯りはついていなかった。ごくっと痛む喉に唾を流し込んで、門扉に手を掛けようとする。――瞬間、チカっと、ライトに照らされた。近くに停まった車が、一瞬ハイビームを焚いたのだ。白い車だった。
「――安室さん……?」
 恐らく、前見た車種と同じだ。私は迷ったものの、今のハイビームは紛れもなく此方に気づかせるようにしたことだと思ったので、恐る恐るその車に近づいた。
 車窓を覗きこむようにすると、窓が開く。やはり運転席に座っていたのは安室本人だった。前と同じような、昼間と雰囲気の違う笑顔が「こんばんは」と言う。

 私は、ばっと沖矢の家を振り返った。まさか、と嫌な予想が過ぎったが、それならば安室が私に話しかけるのは不自然だ。訝し気にしながら、小さな声で「こんばんは」と返すと、第三者が笑い声をあげるのが聞こえた。

「可愛い子、どこで知り合ったのかしら」

 どこかで聞き覚えのある声。はたして何で聞いたのだろうか。
 今笑ったのは、どうやら助手席に座った人影のようだ。安室のことしか見えていなかったので、気づいた私は安室の奥にいる人物に目を凝らす。彼とよく似た、天然物のブロンドが街灯に照らされて艶めいている。女性のようだ。

 私に見つめられていることに気づいたのか、奥の女性は綺麗に整えられた指先をヒラヒラとさせた。
「ハァイ、お嬢さん」
 ぱっきりとしたリップが、美しく笑った。サングラスを掛けているが、それでもパっと美人だと分かる。黒いレースが腕やデコルテを覆ったミニドレスは、白い肌をよく透かした。
「すみません、いつも此処は待ち合わせに使っていたんですが」
 安室が苦笑いをして、私に向かって肩を竦めた。――待ち合わせ、とは勿論助手席にいるブロンドの女性とだろう。

「え、あ、あぁっと……」

 その一言で、なんとなく察してしまう。彼がここにいたのは、沖矢のためではなく、この女性のためだと言いたいのだろう。私が何と返すべきか困っていると、ブロンドの女性が「お腹空いたわねぇ」とぼやく。安室はいつもと違う雰囲気の服装で、タイを軽く締めると「はいはい」と苦笑した。


 鞄にしまった携帯が、ブーブーと震え続けている。すみません、と携帯を取ろうとした手を、安室の手が掴んでいた。私の手を振り払わせないほどの、ぎちり軋むような力に、どうしたら良いか分からなかった。
 助手席にいる彼女が、安室の腿あたりにアメジストのようなネイルを置いて、ずいっとこちらに顔を出した。灯りが見えると、益々彼女の美人さがくっきりとする。その美しさに一瞬息を呑むが、彼女の発した一言で、それはすぐに不安へと変わる。

「貴女、ユキ ミチシロの知り合いだそうじゃない」
「え、ユキ……ですか?」
「ごめんなさいね。彼から聞いたのよ。少し話したいのだけれど……良いかしら」

 私は後ろ髪を引かれる思いで、沖矢の家を振り返った。相変わらず灯りは灯っていない。暗く隠れた窓を見ながら、しかしユキの名前に吸い寄せられるように、私は彼の車に乗り込んだ。