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 松田が曰く忘れ物≠取りにいっている間、私と萩原は教室の前で二人扉に凭れかかっていた。ないとは思いたいが、誰かが見回りに来た時にバレてしまっては大目玉だ。がさごそと漁るような音を聞きながら、萩原がふと切り出した。「そういえばさ」、いつものらりくらりとした雰囲気の彼にしては、些か固い声色だった。ん、と首を傾げて見上げると、ニコと口元が愛想よく笑う。

「この間は、ありがとう」

 ――この間、というのが何のことか分からなかったが、萩原と会ったのは以前の事故以来のことだ。萩原に礼を言われるようなことではない。一人で勝手に勘違いをして、昂って、勝手に泣いたのだから――こう言うと、ずいぶんと恥ずかしいことをしたような気がする。

 私はむず痒い心を隠すように、少し口ごもった。
「や、むしろごめんっていうか……。偉そうに怒っちゃったし」
「あはは、気にしてんだ。かーわいい」
 萩原はその長い髪を軽く掻き上げながら、クックッと喉を鳴らす。彼の「可愛い」という言葉は、決して世辞だとかではないのだろうが、いやらしさがなくて良い。まあ確かに私は可愛いからね、なんて得意になりそうになる。
 降谷とよく似て垂れた目つきだが、降谷のものよりは日本人に寄った末広な二重だ。どこか大人びた視線が、顔の向きはそのままにこちらを見た。

「ちょっとグっときちゃったよ。なんか、ちょっと軽んじてるとこあったかなって思った」

 何がとは言わなかったけれど、彼の固い声色で十分伝わっていた。萩原は一度ゴクンと、隣にいても伝わるくらいしっかり喉を鳴らしてから、もう一度口を開く。

「俺さぁ、どっかでイケるでしょって思っちゃうから。高槻さんが泣いて吃驚したんだよ」
「……私もね、吃驚した」
「あーんな風に泣かせるなら、大事にしなくっちゃね。俺の命も」

 太い眉が八の字になって、情けなく彼は笑った。やはり、そういう風に言われるのは恥ずかしい部分がある。萩原は重苦しく感じさせないためにか、軽く欠伸を漏らす。私も何か話題を逸らしたくて、そうだ、と言葉を続けた。

「さん付け、やめない? 他の子はちゃんって呼んでるよね」
「あー、これは諸伏ちゃんのが移ったんだよね……」
「諸伏くんが」

 確かに、彼も私を苗字にさんを付けて呼んでいる。口調が移るだなんて、よほど仲が良いのだろうか。萩原は苦笑を浮かべてから、頬を掻いた。ちょうどその時に、がらりと教室の扉が無遠慮に開く。

「わり、席どこか分からなくてよ」
「陣平〜……、かくまってあげてんだから、もうちょっと静かに開けろよな」
「どうせ誰もいねえから」

 はっと鼻を鳴らすと、彼は軽く鼻歌を奏でながらご機嫌に歩いていく。本当に勝手な奴だ。鍵すら閉めずにいったことには大分腹が立ったので、その肩を平手ではたいた。 
「って、何すんだ」
「うぜ、自分で閉めな」
 ずいっと鍵束を押しつけると、松田はみるみるうちに不機嫌そうに口を歪めて、しかし文句を言わずに鍵を閉めに踵を返した。反抗期の息子が言うことを聞いたようで、清々しい気分だ。うんうんと頷くと、隣で萩原が笑った。

「なんか、陣平ちゃんにアタリ強くない?」
「獅子は我が子を谷底に突き落とすって言うじゃんか」
「お前の子になった覚えも、獅子になった覚えもねーんだけど」

 鍵を閉め終えた松田は、私の横で露骨に鍵束をじゃらりと鳴らす。よくできたね〜なんて癖毛を撫でまわすと、割と本気で「やめろ」と止められた。こんな奴がモテるなど、世の中は顔だと改めて認識させられてしまう。

「ちなみに、忘れ物ってなに」
「……チクる」
「チクんねーから、知る義理くらいあるでしょ」

 階段を降りながら、松田の方を振り向くと、彼は少し渋るように首を掻く。萩原と視線を合わせると、萩原が「良いんじゃないの」と肩を竦めた。それに従うように、警察手帳が如くクシャクシャになったマルボロのゴールドを取り出す。学校内は禁煙ではないが、授業中に持ち出すような輩は松田くらいのものだろう。教官に見つかったら「そんなに肺活量が鍛えたいなら走れ」と、何周追加で走らされるか分かったものではないからだ。
 赤いマルボロではないのが、少し健康主義を気取っているようで面白かった。

「こんなとこに持ってきて、いつ吸ってんの? 訓練の間に時間ないじゃん」
「トイレ休憩。誰にでも与えられた権利だろ」
「うっわ、最悪……。萩原くん、コイツどうにかしたほうが良いって」

 すすすと長身の体によると、萩原は何ともいえない曖昧な顔でヘラっと笑った。――まさかとは思うが。私が萩原のほうを見上げると、彼はにこにことしながら胸ポケットをとんとんと叩く。

「共犯かよ〜……」
「吸った方が頭冴えてさあ、内緒だぜ」

 ちらりと取り出した黒いパッケージに、懐かしさを感じる。前、彼女がよく吸っていた、メンソールのロングタイプだ。
「それ、美味しいの」
 ――尋ねたのは、メンソールの味についてなのだが、萩原は目をきょとんとさせて意味深に頷いた。

「そっか、まだ未成年なんだっけ」
「あー……うん、そう。一応ね」

 言葉がすれ違ったことに気づきはしたが、あいまいにウンウンと頷いておく。松田はフっと思い出したように厭味っぽい笑みを浮かべる。

「未成年飲酒に、喫煙はヤバいな。仮にも巡査殿が」
「はいはい、そーだよ……っと。やばい、そろそろ交代だ」

 以前の酔っ払いのことを言ったのだろう。松田にむっと口を尖らせてから、私は腕時計を一瞥する。一通りの警備が終わったら、戻って次のメンバーに交代しなければいけなかった。彼らは再び元きた窓から長い脚を上げて、廊下の外に出る。まだ当番は回ってきていないのに、この場所が当直の最初のルートだと知っているあたり、どうやら常習犯だ。

 私は二人が出ていくのを見送ってから、窓を閉めようとサッシに手を掛ける。ふと、萩原が振り向いた。

「ごめんね、マジでありがと」
「いーよ。今度なんかあったらお願い」
「モチロン、任せといて」

 ニコ、と愛想の良い――しかし、少しだけ青年らしい笑顔が浮かぶ。私もその表情を見て、僅かに頬を緩ませた。自然と口角が持ち上がる。
「じゃ、おやすみ。陣平、萩原」
 指をぱらっとばらつかせて挨拶をすると、松田は後ろを向いたまま腕を気だるく振って見せた。萩原は――視線を遣ると、じっとこちらを見つめる顔がある。どことなくぼうっと呆けているようにも見えて、眠たいのかもしれないと思った。
 私が覗き込むように見返すと、彼は少しだけ慌てたように首を振る。「なんでもない」と、ほんの数秒口を噤む。


「……おやすみ、百花ちゃん」


 少しの間のあと、口のされた名前に、私は頷いた。さすがというか、いきなり名前でくるとは。松田のことがあったので人をどうこう言えたタチじゃないが、私は未だに鈴奈以外の同期を名前で呼んだことがないのに。(――だって、学生の頃はみんなさん付けなのに、いつから名前呼びになるんだ――疑問である)

 
 そういえば、名前で呼ばれるのは久しぶりだ。
 入校にしてから殆どの者は苗字で呼ぶし、私もそうだったから。その落ち着いた、にこやかな声色で呼ばれると、名前の響きも声の印象に寄っていく気がする。なんとなく、その響きは気に入っていた。


 遅れて当直室に戻った私を、鈴奈がひどく心配したように駆け寄ってくれた。申し訳ない、悪ガキ二人を招き入れていたなどとは口が裂けてもいえない。「やっぱり、おばけだった?」なんて、真面目な顔で聞くので、それが可愛くてしょうがなくて――つい抱きしめた行動は、セクハラにならないと信じたいところだ。

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Shhh...