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 萩原の注文してくれたチーズスフレに小さく細いフォークの先を差し込みながら、私は萩原の笑顔の尋問に耐えていた。テレビドラマで観る犯人たちは、よくまあカツ丼など掻き込めるものだ。今すぐ食べたチーズスフレを吐き出してしまいたいくらい、妙な緊張をしてしまう。

「ふうーん、諸伏ちゃんとねぇ……」
「絶対言うなよ……」
「俺、案外口堅いよ〜。誰かの浮気とか漏らしたことないしね」

 お前が浮気するんじゃなくて――? と、喉もとまで出かかった言葉は飲み込んでおいた。男として欲情したなどとは言えなかったけれど、ストレートに「エロいと思っちゃって」というと、萩原は少しだけ驚いたようだが、変わらずに話を聞き続けてくれる。なんだか人にこんな話をするのは初めてだ。聞き側に回ったことこそあるものの。少し恥ずかしいけれど話を続けることができるのは、萩原がうまいこと相槌を打ったり、気まずくないように笑ったりしてくれるからかもしれない。


「ま、普通に両想いだと思うけど」
「へっ」


 一通り話を聞いたのちに、萩原はティーカップを指先で軽く持ちながら、さらりと述べた。素っ頓狂な声をだして顔を上げると、彼は笑いながら「えぇ?」と、逆にこちらを見て驚いているようだ。
「いやいや、世間ではそれを両想いっていうでしょ」
「べ、つに……好きってわけじゃないし」
「難しいねえ、百花ちゃん。まだ若いんだから、性欲と恋愛観なんてほぼイコールでしょ」
 いや、若くないから、ほぼイコールじゃないんだよ。
 彼の言うことも分かる。確かに俺も十代のころなど、殆ど好きな子のことをエロい目でしか見てなかったし、セクシーさだって人の魅力だ。ただ、今となっては雑誌のなかのグラビアモデルを見るのと好きな人が、まったく別だと理解できる。

「それに――……」

 萩原は気軽に続けようとしたようだが、急に何か思いとどまるように言葉を切った。皿の上のベーグルにナイフをいれながら、首をゆるゆると振る。「やっぱりやめとく」――そう言われると、気になるのが人の性だ。
「えー、なに。気になんじゃん」
「なんでもないよ。ただ、百花ちゃんは陣平ちゃんだと思ってたからさ」
 意外な名前が飛び出てきたので、私は気になっていたことなど頭のてっぺんからぽんっと忘れてしまった。なんでそこで、松田の名前が出てくるのかが不可解すぎて、やや声を張って「陣平ぃ?」と聞き返してしまった。周囲の視線がこちらに向いたのが分かって、すぐに声の大きさを潜める。

「どうして陣平がでてくんの」
「だって、松田のことだけ名前で呼ぶじゃん。百花ちゃん、いつも苗字なのに」
「あー……だって、呼びやすいし」
「じゃ、俺も研二で良くねえ?」

 私は一度考えてから、ケンジ、ケンジと呟いた。いや、でも萩原は萩原なのだ。なんとなく、そっちのほうが呼びやすいし、しっくりとくる。我ながら感覚でしかないけれど説明したら、「まあ好きなほうで良いけど」と言われた。なら最初から言わなくても。

「百花ちゃんはさ、例えば他にエロいって思うものないの?」
「……そりゃ、あるけど」
「じゃ、それと比べてみたら。諸伏ちゃん。違うと思えば違うし、同じと思えば同じなんでしょ」

 小さくしたベーグルサンドが、彼の大きな口に運ばれていく。シャキリと中に挟まったレタスが瑞々しい音をたてた。「お、美味い」、つい口を飛び出たような素直な感想が、大人っぽい顔つきからは意外な風に見えた。
 私はデザートフォークを咥えながら、少し考えた。そうか、鈴奈をエロいと思うのと一緒――。まあ、この際男女は置いておいて。そう思えば、彼ともただの友達なのかもしれない。だって、鈴奈とは友達なのだから。

「うーん。分かんない」

 性欲と恋愛、切っても切り離せないようで、似ているようで、しかし非なるものだ。
 彼がもし、もしだけれど。「好きだ」とあの吊り目がちな目のなかで、瞳を揺らしながら言ったら。薄っぺらな耳を真っ赤にして、震える指先が縋るように腕をつかんだのなら――それは、もう、堪らなく可愛いと思う。キスをしたいとも思う。

「だから、それって好きなんじゃあ……。ま、本人次第かあ」

 萩原の間延びした口調は、言っていることと相まって急に呑気な言葉に聞こえてくる。いちいち相談に乗ってくれた(――乗らされたともいうけど)というのに、曖昧な結論しかでなくて申し訳ない。最後の一切れを口にいれてから、「ごめん、付き合わせた」と謝ると、彼はニコニコしながら首を振った。


「――……きだと、思うけどね」


 ふう、と視線を逸らしながら、殆ど独り言のように漏らされた萩原の言葉。頬杖をついた手が口元を覆って、聞き取れたのは最後の「思うけどね」くらいだ。私が何て言ったか分からず「え」と聞き返したら、彼は飄々とした笑顔で独り言だと答えた。






 別にまだ日も高いのだから良いと断ったのだが、萩原は電車を乗り継ぎ、わざわざ家の前まで送り届けると名乗り出た。これでも警察官の端くれだ。逮捕術に関してはめきめきと上達しているので、心配しなくても良いと思う。――萩原は「男のメンツだから」と、聞いてくれなかったけれど。

 長身の彼の脚は長く、彼の一歩が私の細かい二歩分。ゆるやかに歩いてくれているのが、よく分かった。
「百花ちゃん、機動隊にスカウトされたってほんと?」
「え、なんで知ってるの」
「そっちだって、俺たちのこと聞いたんじゃないの」
 明言ではなかったが、確かに諸伏に伝え聞きのような形で知ったのは確かだ。彼もモラルがある男なので名前を言いはしないと思うが、彼らほどの洞察力があればそれも筒抜けか。
「受ける?」
「もうちょい将来の話だけどね〜、まだ迷ってる。こんなふうに決めても良いかのかな」
「良いでしょ。才能にあった場所に配属されなきゃ」
 まだ高い夕陽を見上げながら、お気楽に肩を竦めた男を見て、私はふと諸伏が言っていたことを思い出した。
「でも、萩原、爆弾処理……とか、聞いた」
「あー、そうそう。ほら、俺たち機械とかいじるのが得意だしね」
「それ、怖くない? いや、警察になるのにビビってちゃダメだけど」
 彼の向う見ずさを垣間見た後としては、やや不安があった。彼がまた、誰かを救うために――確かにそれは美徳であるかもしれないが、知った顔がそうであるのは気が沈む。

「大丈夫、百花ちゃんのこと泣かせないって決めてっから」
「うわ〜……。めちゃめちゃ気障なこと言うじゃんか」
「だって、そうしないとまたボロボロ泣いちゃうでしょ」

 あはは、と声を上げて笑う様に、私は口を尖らせた。確かに、ボロボロに泣いた。死ななくてよかったと心から思った。よく生きていたと嬉しかった。――あんなに泣いたのは、恐らくこの世界では赤ん坊に生まれて以来のことだ。それほど、平和な家庭で育ったからでもある。

「うん、泣くと思う」

 拗ねながら、意地を張るのもダサかったので、正直に口にする。萩原が、優し気に笑いながら「困ったな」と相槌を打った。


「じゃあ、約束しよ」
 ずいっと彼のほうに拳を突き出す。
 予想外だったのか、口元をやや固まらせながら「やくそく」と子どものようにたどたどしく復唱される。私は深く頷いた。
「絶対に自分の命を大切にする。まだ生きてられるかもしれないときに諦めないし、少しでも生きられる道を探す」
「……それ、意外と難しいことだよね」
「しょうがないか、って思うのは簡単でしょ」
 まあそうだけど、萩原は言葉の切れを悪くした。警察にとっては、難しいことだと分かっている。ただ、華々しく散ることを、美徳とは思わないでほしい。「できるだけで良いよ」と言うと、彼は私のほうを向いた。

 死ぬことを恐れてほしい。死ぬことは苦しいから、痛いから。単純な理由だ。萩原の目は、いつものにこやかな物ではなく、呆けたように此方を向いていた。
「そしたら私、泣かねーし」
 ニ、と少し意地悪く笑って、拳をもう一度持ち上げる。彼は、その拳を包むように、パーの手でぎゅうと握る。暖かい。少し思っていたのとは違ったけれど、彼なりの返事と受け取っても良いだろうか。(想像していたのは、拳を突き合わせる少年漫画みたいなシーンだった)


「そっか」

 十秒ほど、夏空の下で二人手を合わせて、ようやく絞り出たのは、それだけだった。しかしその言葉より、彼の表情が流暢に穏やかな感情を語っている。

 
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Shhh...