28


「プールだ!!」

 ――水難救助訓練。
 夏らしく、どっぷりと水の貯まった深いプールに、目が輝いた。それはレジャー施設などではなくて、しっかりとした訓練の一環なのだが、この立っているだけで汗の滲むアスファルトの上ではオアシスも同然である。

「高槻! 勝手に足をつけるな!!」

 太陽の光をきらきらと反射して、いかにも入ってください〜と言わんがばかりの水面に、つい裸足の指先が近づいてしまった。私は慌てて気を付けをし、教官の説明を聞いていた。まずは、水の中に入らずに救助をする方法を学ぶ。外から浮き具を投げ入れたり、かわりになりそうなものは何かを学んだり。それから、助け出した後の救命措置の確認をし、ようやくのことプールに足をつけることを許された。
 その時点で、足の裏にも汗をぐっしょりと掻いていて、プールサイドにはあちこちに足跡がちらばっていた。

「つ、つめたぁ〜……」

 はぁー、と息をつくのも束の間だ。
 訓練は非常時を予測したものなので、今回は着衣水泳で行っている。そのまま人を背負って泳ぐこと数十分。同じ動きを繰り返しているうちに、服の重たさがネックになってくる。足を動かすたびに、制服のパンツがワンテンポ遅れて水中をだらだらと泳ぐのだ。
 それが案外難しくて、流れのある場所だともっと抵抗があるかもしれない。慣れたら海でも行われると教官には宣言されていたので、さぞ扱かれるだろうと予想できた。


 ペアの子の上半身を浮かすようにして、プールの上まで運び出す。そこから担架に乗せて運ぶ作業は、山岳救助とよく似ていた。私たちの番が終わり、プールの端に寄って次のペアの様子を観察していた時だ。


 私の二つ後ろのペアだった。ちょうど教官も他のペアの子の指導をしていたが、私の視線の真っ直ぐ先にいたので目についた。片割れの子が、びくっと体を強張らせて、それからぐらりと水面に倒れ込むのが見えた。もう一人の子は、訓練中の子のほうをじっと見ていて、後ろにいたその子には気づいていないようだ。

「――あれ」

 数秒待ってみたが、浮かんでこなかった。嫌な予感がして、私は慌ててそのプールの中に飛び込む。プールの水深は深めに造ってあるので、息を吸って潜り込んだ。プールの端にいたのは、隣の教場の女生徒だった。水難救助は合同訓練だったからだ。ボブヘアの彼女の体を、なんとか今習ったばかりの記憶どおりに支えた。

 どうやら足が攣ってしまったのだろう。口の中にはいっぱいに水を飲み込んでいて、水面に顔を出した時には、ざぱっと口や鼻から水が飛び出た。彼女自身も、ごほごほと咳き込んでいる。

 教官が慌ててこちらに近寄って、私に軽く礼を言うと、彼女の腕を担いだ。ざわついた生徒たちのなかで、ひとまずその日の訓練はそこで打ち切られた。






 夕食を終え、課題の資料を探しに教棟をうろついている時だった。今は自主鍛錬に励む者も多く、あちこちで柔道や剣道の掛け声であったり、ランニングをする人たちの姿がうかがえる。
 私が資料室を出たとき、ちょうど扉の影になるように立っている者がいた。一目では誰か分からなかったものの、「今日はありがとう」と言われて、ようやく水難救助の時の女生徒だと気づく。
「いえ、大丈夫だった?」
 見たところ顔色は良いものの、少し心配だ。尋ねると、ぱっと小さな灯りが灯るような笑みを浮かべた。

「うん。急に足攣っちゃって、びっくりしちゃった。本当に助かったよ」
「そっか。なら良かった」
「お礼させてくれないかな。売店とかで良いからさ」

 小さな手が、私の手をぱしりと掴む。水に触れたかのように冷たい手をした彼女は、夏乃と言った。警察学校の入校規定ギリギリほどの体格の小ささで、特に体育会系の多い校内では、少しだけ浮いていた。恐らく年上なのだと思うが、そうとは思えないような幼い顔つきが、私に向かってニコニコと人懐こく笑いかける。
 私は夏乃に売店でアイスコーヒーを奢ってもらい、近くの椅子に腰かけて、プルタブを引っ張り開けた。彼女もまたアイスココアを、私と同じように開けている。

「すごいよね。あんな風に急なことに対処できるの、尊敬するなあ」
「そう……? 正直、あんま考えてないだけかも。教官にも、人がいるときは一人で助けようとするなって、口酸っぱく言われちゃった」
「えー、そうなの。格好良かったけど」

 肩を竦めると、彼女はごくっと飲み物を飲み込んでからそう言うではないか。好みではなかったが、夏乃も可愛らしい風貌をしていたので、そう言われて悪い気はしなかった。彼女はぷっくりとした涙袋を、ますます目立たせるようにニコと目元を細める。
「私、百花ちゃんとお友達になりたかったんだよねぇ」
「ん、どっかで会ったっけ」
「山岳救助で一緒だったし……いつも術科だと、すっごい格好いいから目立ってるよ。バレーボールもすごかったし……」
「アハハ……」
 それは顔面キャッチのことを言っているのだろうか。つい苦笑いが浮かんだ。恥ずかしく少し耳を赤くしたら、彼女は再びニコっと顔を傾げて笑った。傾いてきた日差しが、傾いたボブを透かした。それを、細い指が耳に掛ける。


「なんか、王子様みたい」
「や〜、王子様なんて、そんなタイプじゃないって」
「そうかなあ。だって可愛いけど、格好良いし……いつも男の子と一緒にいるよね」
「そうかな、女の子とも遊ぶけど、確かに男も良い奴らばっかだよね」


 ――ニコ。私が気まずく顔を上げても、彼女は相変わらず特徴的な笑みを浮かべていた。もしかしたら、男が苦手だったりするのだろうか。かくいう私も、彼氏という彼氏を作ったことはなく(作ってみたが、生理的に気持ち悪くてやめてしまったので)、あまり人のことは言えない。
 ただ、彼女と自分が同じかと言われたら、何かが違うような気もした。

 アイスコーヒーを飲み干して「ごちそうさま」と笑うと、夏乃は缶を私の手から受け取り「ううん」と首を振った。私が何かするたびに、そのニコっという笑顔が見つめてくるのが、気まずい。
 何も切り出してくれない夏乃に頭を掻いていると、ちょうど廊下に丸っこい頭が見えた。ここぞとばかりに、「諸伏くーん」と大きな声でその丸頭を呼び止める。足が止まって、どこから呼ばれたか分からずキョロキョロと辺りを見回していた。――相変わらず、そういうところ可愛いものだ。

「こっち!」
「ああ、高槻さんか。どうした、そんなとこから」

 大きく手を振ると、彼も軽く手を振り返してくれる。たっと彼のほうに駆け寄ると、諸伏は気まずそうに「ちょっと汗臭いよ、今」と忠告してきた。諸伏の汗になら興奮できる自信はあったが、本人が気にしているようなので気持ち距離を取っておく。

「あれ、今日は髪がぺたんこ」
「水入ったからね。どうしても猫毛なんだよ……」
「なるほどね……」

 いつもの丸頭が、益々彼の頭のカーブに沿ってきゅっとまとまった形になっていた。諸伏は恥ずかしそうに毛先を指で弄り、それから私が来たほうに視線を向けた。

「――……あの子は……。確か」
「あ、そう。よく覚えてたね、私見ても全然分かんなかった」
「人の顔を覚えるの、得意なんだよ」
「お礼がしたいんだって、律儀だねー」

 はぁ、と溜息をついて振り向いた時――私はピタリと動きを止めた。少し離れた場所に立つ夏乃が、こちらをジトっと睨んでいたからだ。その表情は、少し見覚えがあった。たとえば、諸伏が萩原と私に向けていたような。

 ニコニコとしていた口角も、今は不機嫌そうに下がっていた。長い睫毛が、彼女の瞳を余計に翳らせている。まさかとは思うが――。私は夏乃と諸伏を見比べて、まさか、と口を動かす。諸伏も、夏乃のほうを見つめながら、少し口元を引き結んでいた。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...