6.5


 冬に生まれたから、冬樹とつけたのだと、母親はよく安直なことを言って笑っていた。母は決して器用な女ではなかったけれど、シングルマザーなりに俺をよく育ててくれた。部屋は狭かったし、さして良いものが食べれたわけではなかったけど、俺はその生活を苦に思っていなかった。

 ただ、母には一つだけ俺にとって都合の悪い癖があった。恋愛体質というのだろうか。彼女は愛に熱い女で、俺が小学生に上がってすぐ惚れ込んだ男と一か月たらずで入籍をした。不愛想な父だった。彼がにこやかになるのは母にだけで、母はそれをひどく愛していた。

 
 父の家族は、兄が二人。どちらも素行が良いとはいえない兄たちだ。
 母が父にゾッコンであったぶん、目の向けられない俺は彼らの良い的だった。最初は小さなお菓子だった。コンビニに売られた、ほんの小さなお菓子。服のポケットにいれてしまえば見えなくなるようなもの。

 けれど、それを持って帰らないと、彼らは機嫌が悪くなるから。「みんなで食べて」と置いて行かれた食事代を、渡してもらえなくなってしまうから。
 しょうがないと思った。しょうがない、生きるためだ。
 お菓子、ジュース、それがヒートアップするとイヤホンやCD、中古のゲームソフト。
 
 
 物を取っていけば、彼らは何も言わなかった。ただ、「コイツ使えるじゃん」とけらけら笑うだけだった。菓子パン一つを地面に落として、けらけら、けらけら、けらけらと。
 心が死んでいくような気がした。生きている心地がしなかった。


 俺の心が死ななかったのは、週に一度母親が返ってきたからだ。父親を愛していたが、俺のことも子どもとして愛してくれていた。帰ってくれば、思い切り抱きしめてくれたし、ニコニコと話を聞いてくれた。母がいると、兄たちも何も言わなかった。

 母が一匹の猫を連れて帰ってきた。シモンという名前の、白くてふわふわした猫。

「なんだか、冬樹に似てる。白くて、ふわふわで、小さくて」

 言うと、彼女はぽろぽろと猫を抱きしめて泣いていた。「こんなふうに、抱きしめてあげられたらなあ」と、誰に言うでもなく泣いていた。

 そんな母が死んだと聞かされたのは、ほんの一年後のことだった。唐突だった。週に一度、帰ってくると思っていた母が、写真と壺だけになって帰ってきたのだから。俺はわけがわからなくて、ただ呆然と大人たちの会話に耳を澄ませた。

「破傷風だって」
「あんな猫拾ってくるから」

 破傷風。猫。分からないまま、携帯で調べた結果に愕然とした。そんなことがあるのか、まさか、そんな。ようやく理解した俺に、泣くような時間は残されていなかった。

 俺は母が死んだこと以上に、明日のご飯をどうしようと不安になった。週に一度の安全地帯がなくなってしまったことに、ただただ恐怖した。どうしたら良い。戸惑う俺に、兄たちは容赦がなかった。
 気付けば万引きではなくなっていた。紙袋に入った、『分からない粉』を約束の場所に持って行く。それが俺がご飯を食べる方法だった。


 それから、何年が経っただろうか。静かにひっそり言うことを聞いていれば、くいっぱぐれずに済んだ。少なくとも、二日に一度は何か食べさせてもらえる。
 気持ち良くなると、俺の髪をブリーチしたりピアスの穴をあけたりして遊んだけれど、別に良かった。それで、生きてられる。心がすり減ってすり減って、もうペラペラになっていたけれど、生きてはいられる。

「タトゥーほるか、タトゥー」
「良いじゃん。かっこいい、龍とかやってみる?」

 怖かった。突き付けられた先端、俺はつい逃げ出した。一旦逃げ出したら、彼らは怒鳴りながら追いかけてきた。そんな時に、彼と出会った。外国人のようなキラキラとしたブロンドに、小麦の肌。深く帽子をかぶっていて、顔自体は見えなかった。ぶつかって倒れた俺を引き上げて、男は言った。

「――ここを曲がると、交番がある。そこにいる、高槻という巡査に助けを求めるんだ」

 大丈夫、きっと力になってくれる――。

 俺は、ただ縋るようにその交番に駆け込んだ。

 高槻という警察官は、決して警察の見本のような人ではなかった。公の人間って、こんなに一人の人間に入れこんじゃいけないんじゃないのか。彼女は俺を見ると、気が抜けるように笑う人だった。上司がいないと、こっそり手を抜いて書類を作るのも知っていた。

 綺麗な人だった。恋とかそういうのではなく、人間として、必死に生きているのが分かった。俺とは違う。心を擦り減らせて生き延びるだけの毎日じゃない。それが綺麗で、その横に立っていると、少し安心した。

「シモン」

 と、呼んでくれるその声が好きだった。もう一度、聞きたい。名前を呼んで、優しく抱きしめてほしい。きっと後ろめたさもなく、生きることができたなら。どうか、俺をもう一度だけ抱きしめてほしいんだ。おかあさん。
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Shhh...