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 降谷と諸伏の仲を再認識したのは、入校して二週間ほど経った時だった。

 まだ松田と降谷も喧嘩ばかりで、何かと目立つ降谷は教場外からも注目されていた。良くも、悪くも。優秀ではあるが、そのつっけんどんで馬鹿真面目な性格が、当時余裕のなかった同期たちを刺激した。成績を鼻に掛けるということもなかったが、興味のない者に愛想を振りまくようなこともなかったので、厭味を言われると真っ向から言い返すのをよく見かけた。
 普段はその間に入るクッション材のような役割をする諸伏が、同期たちの厭味を苦笑いで済ますような彼が、降谷の生まれのことを言われた時だけ。何と言われたか詳しくは分からないが、その時だけ、相手に掴みかかったと聞いた。
 諸伏は温厚な男だ。萩原のように場を盛り上げるわけではないが、聞き上手な彼は誰といても卒なく仲良くなる。その涼やかでツンとした顔つきが人懐こく見えるのは、いつもニコニコと話を聞いている印象があるからだ。

 そんな彼が手を出すだなんて、想像だけでは考えられなかった。それだけ、諸伏にとって降谷は特別な男なのだと知っていた。

 それはきっと降谷も同じで、諸伏のことを特別に思っているかもしれない。彼にだけ事情を説明しても、それ自体は不思議じゃなかった。

 ――諸伏が、少し不安げにしていた瞳が、どうしても頭に残っている。何か良くないことがあるのではと、警鐘が脳を駆け巡る。改札で駅員に、諸伏の特徴を伝えてみると、意外にもすんなりと答えが返ってきた。

「ああ、あの吊り目のお客さん。覚えてるよ、色黒のお兄さんと一緒にいただろ」
「そ、そうです! どこにいったか分かりませんか?」
「あっち側の路線に向かったのは見たがね、米花行きはどっちかと聞かれたから」

 私は駅員に頭を下げて、改札を抜け階段を駆け上った。彼を探してきょろきょろと辺りを見回しながら、待機室の扉を開けた時、ちょうど部屋から出てくる男に鼻をぶつけてしまった。ふわりと香った煙草の匂いに、ハっとして顔を上げる。
「諸伏く――」
 顔を上げて、私はン、という言葉を発する前に口を噤んでしまった。
 諸伏によく似ているが、違う。彼は諸伏と似たツンとした猫目を不思議そうに瞬いて、首を傾けた。背格好もシルエットも、顔つきも似ているが――違う。諸伏ではない。
「すみません、人違いで……」
「いえ、気になさらず」
 諸伏よりも大人っぽい声色だ。一見で年上だと分かる男の背後から、顔を出した男を見て私は目を見開いた。

「なんだ、よそ見してんなよ」
「……そんな言い方をしては怖がらせてしまいますよ」
「お前に言ってんだよ! お、ま、え、に!」

 しゃあしゃあと食い下がる連れの男は、無精髭で厳つい見た目をしていて――肌が浅黒かった。よく考えれば分かることだ。降谷を見た時に、あの金髪を特徴として出さないことがあるだろうか。冬樹のように、外人みたいだとか、そういう風に言うのが普通じゃないか。

 もしかして、駅員は彼らのことを言っていたのではと合点がいったとき、ならば諸伏たちはと辺りを見回した。
「大丈夫ですか」
 目の前の男がやや気遣うようにこちらを見遣ってきて、私はふるふると首を振った。
「大丈夫です。人を探していて……ぶつかってすみません」
「いえ、よそ見をしていたもので」
「お互い様なので――すみません、失礼します」
 私は踵を返し、改札まで戻った。ここまで来たらお手上げだ。改札の中に入ったのかも、そのまま通り過ぎて反対側の出口から出たのかも分からない。私はため息をついて、切符を清算し改札から出ることにした。


 荷物を背負って、反対側の出口から駅を出る。こちら側は、図書館や公園の並びが目立つような一帯で、あまり来たことはなかった。諸伏がいるとは思わなかったが、人混みよりはいったん落ち着けるかと思った。

 携帯を開く。着信はない。彼のメールアドレスに、『大丈夫だった?』と、一言だけメールを送ってみた。返信があるわけではなかったが。小さな公園のベンチに一度腰を下ろして、大分傷のついてしまったショッパーを撫でた。
 どうして、これが二度と渡せないと思ったのだろうか。
 分からないけれど、降谷の姿を見かけた途端、そんな予感が過ぎったのだ。降谷が最近姿を見せないから――? 彼は忙しいだけだ。きっと、そう。別に音信不通になっているわけではないし、仮に諸伏がそうなったとして、会えなくなるわけじゃあない。

「考えすぎか」

 ふう、と風が撫でる心地よさに空を見上げた。諸伏の瞳によく似た、紫味を帯びた空。日が傾いてきているのを知った。空を見上げていると、ぽつんと頬を水滴が濡らした。

「げ、雨……」

 一度落ちた水滴で溜めていたものが決壊したかのように、ばらばらと雨粒が地面を打ち始める。私はうんざりしながら、近場のカフェの屋根を借りた。空は晴れているので、きっと通り雨だ。そのうち止むだろう。
 濡れた髪の露を軽く払いながら、目の前が細い雨の糸で銀色に染まるのをずっと見つめていた。視界が悪くなっていく中、ぱしゃぱしゃと不規則な音がした。誰かの声。恐らくこの路地の裏だ。雨の音に紛れることはなく、寧ろ雨足とともに大きくなっていくように思う。まるで誰かと言い争うように。
「……まさかね」
 と、独り言ちてみる。まさか、まさかとは思うけれど。
 もし、そうだったら――。私は声の聞こえる路地の壁際まで寄り、その声を探るように耳を澄ませた。

「――って、言ってくれれば――のに、――!!」
「だから、――。お前には――――、ヒロ=I」

 ヒロ、という言葉にギクリと体が軋んだ。
 さすがに雨で音が隠れているといっても、顔を出せばバレてしまうかもしれない。私は壁にぴったりと体をくっつけていた。バレて悪いのか――? 良いじゃないか、知られてやましいこともないし。思ったものの、体は言うことを聞かない。

 通り雨が少しずつ弱くなると、彼らの声は鮮明に聞こえるようになる。同時に、物音もよく聞こえた。ばしゃばしゃという足音、何かにぶつかるような、がしゃんという物音。

「俺たち、一緒だろ。ずっと……同じ目標で来たんじゃないか!」
「ヒロには、捨てられないものがある。無理だよ、僕とは違うんだ」
「何を……。ずっと一緒だ、ゼロ。一緒に日本を守ろうって、言っただろ……」
「――高槻がいる」

 降谷が出した自分の名前に驚いて、息を呑むのを堪える。私の代わりのように、諸伏が息を呑んだのが聞こえた。泣いているのだろうか、彼の声は鼻に掛かっていて、とても時折ずび、と啜るような音がした。

「高槻さんが、何だって――……」
「分かるよ、幼馴染だ。ヒロがあいつのことを、本当に好きなことくらい、知ってる。それで良いんだ、捨てられないものがあるなら、そのままで」
「ゼロ――……駄目だ、違う。俺は、俺は! 俺は……」

 諸伏はそのまま、言葉を失ってしまった。
 ぱしゃん――水を跳ねる音が、静まり返る。私は胸が嫌な軋みを立てるのを聞いた。よく聞けば、それは鼓動の音だった。「僕には、捨てられないものはないから」、寂し気な降谷の声が呟いた。

「大丈夫。正義の味方さ、どこにいたって同じだ」

 ぱしゃぱしゃと足音がこちらに近づくのに気づいて、私は慌ててカフェの中に入った。呼び鈴が鳴る。店員がこちらに駆け寄った。私は一瞬迷ったが、店員に謝ってもう一度扉を潜った。降谷のことも気に掛かったし――諸伏のことも。気まずさとか、そういうことを考えていては駄目だ。

 路地裏に顔を出すと、既に降谷の姿はなくて、諸伏が水たまりのなかに力なく座り込んでいた。私がゆっくりと近づくと、彼はその暗い表情をこちらに向ける。苦しそうな表情だった。

 濡れた手が、こちらに伸びた。
 助けを求めるような手を取ると、そのまま手を引かれ、私は濡れた彼の体の上に雪崩れこむ。冷たい体だ。先ほど笑っていた彼とは、まるで別人のようだった。水を吸ったシャツに、鼻を埋める。
「……高槻さんは、俺を正義の味方だと思う?」
 ふいに、諸伏が尋ねた。その体に腕を回して、まるで子どもに言い聞かせるように「思うよ」と言った。

「君は上澄みしか、見ていないから……だから、言えるんだ」

 苦しそうに言い捨てた言葉が、私には衝撃だった。言葉がでなかった。
 どうしてそんなことを言うんだ。だって、私は、私は。過去を見ると諸伏が苦しそうだったから。幸せであってほしかったから。だって、好きなのだ。そう思うじゃないか。
 いつか話してくれれば良いなあと思いながら、今は自分のことを頑張ろうと決めた。間違いだったのか。二度目の人生さえ、私は正しい道を選べなかったのか。

「……だったら、上澄みじゃないところも、見せてよ」

 私は諸伏につられるように泣きそうな声を堪えて、言った。彼は無言を返した。

「ちゃんと、話して、聞かせてよ」

 ぎゅうと彼の背中に指を立てる。諸伏は、私の体を引き離したと思えば、上から被さるように濡れた唇を重ねた。痛かった。煙草の味が残っていた。今までのキスとは違う、舌が絡んで、何度も食べられてしまいそうだった。


「ん、はっ……もろ、ふしくん」
「……俺は、優しくない。松田みたいに器用でも、萩原みたいに朗らかでも、伊達みたいに勇ましくもない。全部嘘だ。嘘なんだ」


 懺悔のような嘆きが、目の前で苦しそうに吐かれていく。肩にかけていたスニーカーの袋は、水たまりに浸かって形を崩している。
 彼はもう一度だけ、深くキスをすると、ふらふらと路地裏を去っていった。私はそれを追いかけることはできなかった。

 
 家に帰って携帯を開くと、諸伏から一件メールが入っていた。『警察をやめた』と、たった一言。そこからは、何をしても、彼のアドレスにメールが届くことはなかった。私は暫く呆然としたが、布団を被ると途端に溢れる涙を止めることができなくて、ひたすらボロボロと子どものように泣きじゃくっていた。

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Shhh...