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 クリスマスイブには奇跡が起こるだなんてキャッチフレーズ、クソ喰らえだ。

 何が奇跡だ、最悪だ。気まぐれそうな目つきが、ぱちくりと俺を見つめて、心が嫌な軋みを立てた。いや、きっと彼女の癖を知って狡いことばかりした俺への当てつけなのかもしれない。酒を飲むとすぐに記憶を失くすことを、一年と少しの付き合いでよく知っていたから。この時くらいしか彼女に触れられないからと、小狡い考えが過ぎってしまった。ひどい後悔に頭を抱えた。

 高槻のいなくなった腕の中を、呆然と眺める。まだ少し温もりがあった。俺よりもほんの少し、冷たい体温。ふわっとした細い髪質と、ソーピー系の香水の香り。動揺でドクンドクンと歪に鳴っていた鼓動が、僅かに静まっていた。
 また、狡いことをしてしまった。
 彼女が自分のことを放っておけないと分かっていたのに。分かっているところまで潜り込んだのは俺のほうだ。少しでも、友達でも良いから、傍にいれるところまで深く深く付け込んだのは俺のほうなのだ。
 
「本当にごめん」

 俺は、空になった影の下にもう一度ぽつんと謝った。
 罪悪感で死にそうな心のなかにも、彼女が許してくれたと僅かな希望を抱いてしまう、どこまでも独善的な考えに我ながら腹が立った。





 高槻を見た最初の感想は、松田が好きそうな子≠セと思った。
 着校から何かと教官にどやされる小さな影を、傍目から見て知っている。――少し中心から離れがちな横幅のある目に、小ぶりで無個性だが整った場所に配置された鼻と口。女の子らしい見た目だというのに、あの鬼塚教官にどれだけ首根っこを掴まれても、涙一つ零さないタフな子だった。

 松田は昔から気の強い子が好きで、だからそう思った。
 俺はといえば、どちらかといえば女の子らしい穏やかな性格の子が好みで、ただ面白い子だなあと傍観者として楽しんでいたのは確かだ。優しくて、だけど甘えん坊で、寂しがりな人。女の涙という武器を分かっていても、放っておけないような子。――それが俺の中の恋人だった。
 
 高槻は、彼女らとは違う。
 一緒に話していれば楽しいし、可愛い表情は魅力的だ。(――酔っ払いの話を最初に聞いた時は、正直ウケた。)同期として、そんな子がいても良いなあと思っていた。諸伏に至っては、何かと彼女のことを気に掛けている様子だったので、まあ応援してやるかとも。


 その全てが引っくりかえったのは、とある事故の後だった。
 俺からしたら、ちょっとしたヤンチャ=B
 そもそも学校に勤めている最中は車の運転を禁止されていたが、そんなことも振り払ってアクセルを踏んだ。人命救助でもあったし、これで退学になったらその時はその時だ。自分の中の良心に従っての行動なのだから、後悔はないと思っていた。

「死んだかと、思ったじゃんかぁ」

 高槻は泣いていた。
 あのタフな子が。時折男の子のように悪戯に笑って、年齢のせいか男たちの中でも際立って罰則ばかり与えられて、それでも最後には茶化して済ませてしまうような――そんな強い子が。
 今だけは、俺のために、ボロボロと子どもみたいに涙を零していた。
 確かに同期の中では親しくしていた方だったが、数年来の付き合いの松田とはわけが違う。ただ、彼女は俺が死ぬのが恐かったと、感情をすべて涙に押し出したように泣いていた。

 ――彼女を見ていたら、気付けば俺の目じりにも涙が溜まった。
 置いていってはいけないと、思った。その表情を見ていたら、今まで見たどの涙よりも胸がぎゅうと苦しくて、少し唇が戦慄いた。泣かせたくないと思った。笑っていてほしいと思った。

 
 それから、高槻の笑った顔が好きになった。
 ニヤっと口角を持ち上げるのも、気まずそうに誤魔化して笑うのも、照れ臭くはにかむのも、ふっと自然と微笑むのも、大きく口を開けて笑うのも、全部好きだ。彼女は笑うと、とても綺麗だ。

「お前、高槻のこと好きだろ」

 さらりと、とある夜に幼馴染が告げた。
 松田の忘れた煙草を取りに、教棟に忍び込んだ帰り道だった。いつだってストレートな松田の言葉はすんなりと心に入り込んできて、ああ、そっか、と独り納得した。
「……そうかも」
「ハァ……。あいつ、好きなやついんじゃねーの」
「だろうね」
 諸伏と高槻が、特別な感情を抱きあっているのは知っていた。まだそこまでの感情を持っているかは別として、何か、俺たちへ向けるものとは違う視線を持っていた。高槻は諸伏を見る時だけ、違う人物のような情熱的な色を覗かせる。

 

 ――高槻の良き理解者として潜り込んだのはわざとだ。
 その時はまだ、隣にいればもしかしたら、俺にも視線が向くのではと思っていた。女の子は共感を得る相手に親しみを持ちやすい。今までずっとそうやってきた。
 しかし、諸伏と高槻の間に入るには、俺はあまりにも他人だった。蚊帳の外だった。
 彼女が熱っぽく見つめる先には、いつだってあの爽やかな猫目がある。それなのに、自覚を持たない高槻の言葉を聞くたびに、淡い期待が胸に生まれる。


「好き、だったらどうしよう」


 そう呟く小さな唇に、一生気づかなければと思っていた。いや、いっそ気づいてしまえば。諸伏と付き合って、二人で幸せに笑いあってくれていれば、諦められる。出会って数か月ではあるが、諸伏も大切な同期の一人だ。きっと心から祝ってやれる。
 
 ならそれが叶う少しの間だけ、彼女の傍にいよう。
 どうせいつか触れられなくなるのだから、少しくらい。彼女が何も覚えていない時だけで良い。一方的で構わない。少しだけ、少しだけ。

 少しだけ。

「――ずりぃ男だよなあ、本当に」

 俺は落とした煙草を靴の先で潰してから、二本目の煙草に火を点けた。
 少しだけで良かったのに。彼女の笑顔が好きだったのに。諸伏のことを好きだと、知っていたのに。
 街路樹を飾るイルミネーションを見つめる。ぼやけた視界を、瞬いて誤魔化した。友達のままでいれば良かった。伝えなければ良かった。それでも伝えてしまったから――もう、俺は狡い男になるしかない。

 後悔だけが、ふう、と吐き出した煙に乗せられていく。
 チャチなクリスマスソングが街中に響いて、飲み屋街は喧騒に満ちていた。自嘲的な気分を、一人笑い飛ばした。
 煙が浅く伸びたような白いカーテンは、周りから自分を隠すようで落ち着いた。いっそ、このまま全てなかったことになったらなあ。明日起きたら、またもう一度友達として始まってたらなんて、夢のような考えが浮かんだ。

「恨むぜ、諸伏ちゃん」

 高槻を置いていった諸伏に、行き場のない鬱屈とした気持ちを八つ当たりした。気持ちばかりが膨らんでいく。友達でいるのは、もうやめなくちゃあいけない。


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Shhh...