70


「お姉ちゃんー、いい加減起きなってえ」
「はいはい、あとちょっと……」
「も〜、さすがに寝すぎでしょ」

 
 ごろん、と馴染みのあるベッドのなかに蹲ってかたつむりのように頭だけを飛び出させた。年越しそばを食べたせいで襲ってきた満腹感が、睡眠欲を尚加速させる。たぶん、このまま一日眠れる気がする。鈴奈と飲み明かしたせいで、二日酔いの頭が痛んだ。
 めでたい新年を迎えたといえど、することも特になくて、母は引き籠る私のことをひどく心配していた。「去年はあんな楽しみにしてたのに」――と。そりゃあそうだ。去年は、諸伏と初詣に行く約束を取り付けていたから、朝っぱらから着飾ることに必死だったのだもの。
 同期の集まりにも、萩原と顔を合わせてしまいそうで行き辛い。きちんと答えを出すと決めてはいたけれど、皆がいるところで気軽に言えるようなことではなかったし。

 私は静かにため息をついて、部屋の隅に飾られたベコベコな箱にいれられたスニーカーを見た。あの日渡せなかったスニーカーは、そのままに部屋の隅に追いやられている。捨てることはできなくて、けれど自分が履くには大きくて。

 そうそう、去年の今頃は、確か二人で近くの神社に行ったのだ。彼が甘酒が好きだというから、二人で小さなカップを手に砂利道を歩いていた。




「うわ、すっげー列……」

 参内するための列に、人の流れとともに辿りついて、私はぽつりと漏らした。白い息が青い空に浮かぶ。諸伏は私より少し遅れて隣に並ぶと、同じように列を見渡して「すごいな」とぼやいた。
 三が日も警察の仕事は変わらない。私たちの休みが被ったのは、偶然の産物だ。以前の飲み会でそのことを知った時は、どれほど嬉しかったことか。心の中でガッツポーズしたつもりが現実でも拳を握っていたらしく、隣にいた萩原がプっと噴き出していた。
 さらにいえば降谷も同じく予定を空けていたのだが、彼はあまり人混みが好きではないらしい。初詣が終わったら、改めて彼と合流する予定だ。

 それまでのたった数時間だが、彼と二人でいられる時間が嬉しかった。私はニヤニヤと緩む頬を隠すことなく、モッズコートを羽織ったシルエットの横でマフラーに唇を埋めていた。


「はあ」


 吐き出された吐息に、振り返る。もしかして呆れられたのかと思ったが、どうやら甘酒を飲んで一息ついた音のようだった。寒空の下で、やや色づいた唇が暖かな息を漏らす。冬の空がよく似合う男だった。その澄んだ空気だとか、刺すような日差しだとか、そういうのが彼の顔つきに似合っている。

 顔つきは幼いのに、それが色っぽく思えて、私はジっと彼を熱っぽく眺めていた。諸伏は私の視線に気づくと、甘酒をこちらに差し出して「飲むか」と尋ねてくる。私も持っているのに。笑いながら断って、私も白い紙カップに口をつけた。いつもより気合を入れた、深いナッツブラウンの口紅が縁を汚した。

「ん〜、うま!」
「あはは、そっちのが美味そう。交換する?」
「同じだってば」
 
 冗談めかして言う諸伏に、私もけらけらと笑って返す。しかし「どうかな〜」とわざと大袈裟に怪しむから、試しに私が飲んでいたカップを渡すと、口紅のついていたほうとは逆側に彼の上唇が乗っかった。

「あ、こっちのが美味い」
「んなわけ。でも久々に飲むと美味しいね、降谷くんにも買ってく?」
「良いな、それ。屋台のメシも何個か買ってくか」

 近くで焼かれていた焼トウモロコシを見つめながら言うので、ああ、降谷はあれが好きなのかと思った。分かりやすい視線である。少々妬けるほどだ。こおばしい香りは食欲をそそる。
 帰りに買っていこうと、屋台を横目に列が進む。冷たい空気だったけれど、幸いにも空は青く澄んでいて、甘酒を飲んだこともあり体はそれなりに温まっていた。長い時間を並ぶのも、全く苦ではないほどだ。

「お、っと」

 ふと、行列を抜けてきた小さな影。諸伏は目敏くそれを視界に止めると、影と同じく小さな肩を軽く掴んだ。ふわふわとした髪が、掴まれたことに気づいてきょとんと振り返る。諸伏がニコリと微笑んで数秒、影と同じ方向からもう一つのシルエットが抜け出てきた。

「きゃあ、すみません! もう、勝手に行っちゃダメでしょ」
「いえいえ。ほら、ママのほうに行きな」
「本当にありがとうございました……まったく……」

 まだ年若く見える母親は、桃色のコートを羽織った少女を捕まえると、軽くふわっとした頭を下げさせて手を引いていく。少しばかり色素の薄い大きな瞳の少女だ。彼女は母親に連れていかれる間際に、こちらをチラっと振り向いた。

 諸伏と私はそれに顔を見合わせて、それから少女に向かって手を振る。彼女はふっくらとした頬を緩ませて、小さく紅葉のような手をぶんぶんと振り返した。

「かわいいな」

 く、と軽く喉を鳴らして、口の端が緩んだ横顔。君のが可愛いけど、と心の中でつぶやいた。




 ――付き合っていたわけじゃないけれど、諸伏の隣に立つその時間が好きだった。ふとした瞬間に、その姿を思い出すことさえ喜びを感じた。
 不安げに震える手は握っていたかったし、恥じらい赤らむ頬にキスをしたい。冷たくなった体は抱きしめていたい。

 ――また、会いたい。

 携帯の中に保存された画像を、潜った布団の中で見つめた。そう思ってしまうのは、やっぱりただの傲慢なのか。彼の人生だ、彼が決めた道が正しいはずだった。
 諸伏との思い出を一つ思い出すたびに会いたい。会えないと分かると、寂しい。それなのに、彼との記憶だけは、なによりも鮮明だ。体温のひとつ、笑った皺のひとつ、瞼の裏に思い描ける気がした。


「……うん。やっぱ萩原に会わなくちゃな」

 
 僅かにあふれ出しそうな涙をぐっと飲み込んで、私は枕に額を埋めた。
 この気持ちを抱えたまま、彼の好きだと言う気持ちを受け止めることはできないと思ったのだ。以前のように気軽に会えなくなるのは、そりゃあ寂しいけれど。しっかり言おう。松田の言う通り、それが互いのためだ。


 その日は、いつもよりも長く眠った気がする。
 深く、深く、前世の夢を見ていた。今まで通り、過去にあったことをリピートするだけの夢。いつも見ている夢に、一つ疑問が残る。どうして妹と観たスクリーンは、いつもノイズがかかっているのだろう。

 思い出すな、と私が言うような。思い出せ、と俺が叫ぶような。

 ――思い出せ、思い出せ、思い出せ!

 響く声を、ノイズが消していく。ちかちかと俺の視界を照らすスクリーンにも、ノイズが掛かっていて、シーンによっては飛び飛びになっていた。壊れたビデオテープみたいに、途中で急に場面が飛んだり、台詞だけが先行してしまったり。

 何を思い出したいの。
 妹のこと以上に、思い出さなきゃいけないことはないと思うのだけれど。このスクリーンに、何があると言うのだ。
『お兄ちゃん!』
 やめてくれ、やめて、頭が痛いんだ。蹲る布団の中、幸せな夢だけを追っていたいのに。今度こそ、まともな人生を歩むと決めたのだ。ロクデナシの記憶など、もうどこかに追いやってしまいたい。――はやく、私は高槻百花になってしまいたかった。


 
prev さよなら、スクリーン next

Shhh...