76


 日も暮れ、飲み屋や風俗店の灯りが目立ち始めた頃。あくまで今回の目的はクラブ内の摘発ではなく、中で行われていることの事実確認だ。目立つ必要はない。髪は丁寧に巻いて(――萩原作だ)、なるべくタイトめのレースワンピースに着替える。佐々木はさすがに目立ちすぎるので、今日は他の同僚とクラブに訪れていた。
 前世ではチラホラと行ったことがあったが、佐々木の言う通り、年齢層は若く十代から二十代前半。クラブミュージックというよりは、わあわあと騒ぐことを目的にしているような室内だった。
 私より少し年上の同僚と腕を組みながら、人の波に逆らいなんとかドリンクコーナーまでたどり着く。まだ夜中でもないというのに、よく流行っているクラブらしい。
 バーカウンターに腕を掛けながら、ジンライムを呷る。ちらほらと外国人の出入りがあるのが特徴的だと思った。

 暫くそうして周囲を眺めながら、視覚だけで情報を集めていたのだが、そうしているうちにクラブのスタッフらしい男が私に声を掛けた。VIP席への誘いである。ちらっと同僚に視線を向けると、彼は静かに一度瞬いた。
 潜入する前に決めていた合図だった。否定は二回、肯定は一回、判断を任せる時は片目を掻く。私もスタッフに視線を向けたまま、ゆっくりと一度瞬く。
 VIPとはいえ、この店のVIP席はそれほど奥まっておらず、一般席からも見える場所にあったので、彼もそれほど慎重になる必要はないと思ったのだろう。


 私がセキュリティの立つ奥にあるソファに訪れると、そこにいたのは恐らく外人の血が入っているだろう、若い男だった。降谷やこの間見た男とは違い、ちぐはぐに鼻が高く、目は黒く、品のない金髪が目立っていた。


「おー、かわいい! 童顔だね」
「そうですか? よく言われますけど」
「おいでおいで。お酒飲もうよ」


 と、目の前に置かれたカラフルで小さなボトルたちを指す。女の子用なのだろうか、パーティ向けによく見る銘柄だ。甘い口当たりがナンパに持ってこいだと、評判の酒。この体がアルコールに弱いのが、厄介だ。

「今日は一人?」
「……さっきナンパしてきた男と来たけど、ツマンナイ奴だから置いてきたの」

 ふう、と溜息をつき、目の前にあるボトルに手をつけた。
 一口、小さなカップに入ったそれを飲み干し、長い髪を軽く耳に掛ける。こういう男が好きな仕草は分かる。要は、俺の好みらしい女を演じれば良いのだ。

「だから、美味しいお酒くれるお兄さんは好きだよ」
「じゃあもっと飲みな。それとも踊る?」
「踊るのは疲れちゃった。お酒いただきまーす」

 ボトルからグラスに移す仕草を、私はわざとらしくボトルを手から滑らせた。恐らく、彼も気づけるだろうほど大袈裟に。滑ったボトルは、彼の高そうなジャケットへツンとした香りの液体をばら撒いた。

「あ、ごめんなさい……」

 近くにあった手拭きで、そのジャケットを拭う。反対側の手は、彼の腿に添えた。軽く酒を拭いてから、ちらりとその視線に上目遣いを向けて、少し肩を竦めて笑って見せる。

 ――どう、今のは良いだろ?

 心の中ではここまでうまく決まると思っていなかったカマトトぶりに鼻高々だ。きっと彼は思うはずだ。金に寄ってくる馬鹿そうな尻軽女。あざとく振る舞って、利益をせしめ様とするがめつい人間。
 そうやって、見下した気になってくれればこっちのものだと思った。こういう偉そうぶった男は、あざとくても下手に出るような女が好きだ。

 ふわ、と覚えのある匂いがした。こおばしい香り、多分マリファナだ。くん、と小さく鼻を鳴らし、手を滑らせ――一瞬、指先が腰元を掠めた。

 そして、私はバっと体を離す。

 腰あたりに、固い感触を感じた。どくどくと全身の血が巡っているはずなのに、指先だけがスーっと冷えていくのを、私はグラスを取って誤魔化した。自分も扱うから分かる。警察に支給されたものよりは小さい。ベレッタ程度の大きさであるように思う。
 ――銃だ。
 私はちらりと一般席のほうを振り返った。同僚を視線で探すが、見当たらない。下手な真似をして警戒されたらまずいが、それ以上に酔っ払って密室に連れ込まれたら、さすがに銃を持った男相手に一人は危険だ。

 しょうがない、いったん退席しよう。
 私は少しかわい子ぶった声で、バッグを持ち「お手洗い行ってきますね」と笑う。

「まだ大丈夫でしょ。ほら、もうちょっと飲んで」
「うーん。でも我慢できないかも」
「じゃー俺が連れてったげる」

 ――馬鹿か、お前! それじゃ意味ないだろうが!
 という言葉が喉の奥まで溢れかけたのを、慌てて飲み込む。んー。と悩ましく笑っていると、一人のセキュリティが声を掛けてきた。

「すみません。お客様、あちらの席でお呼びです」
「あ? ……ああ、ボスか。しょうがねえ、さっさと行きな」

 男は一瞬機嫌悪そうに振り向いたものの、すぐに呼ばれた席のほうを一瞥すると諦めたように私を手で追い払った。その視線は新しい女の子を探すべくか、既に私のほうを見ていない。――いや、違う。恐ろしいのだ、ボス、と呼ばれた人が。その獲物を掠め取ってしまうと、後に報復があることを分かっているのだ。

 私は席を立ち、セキュリティの言われるままに案内される。しかし、どうにか席を後にはできたものの、これでは意味がない。せいぜい、ボスとやらに幻滅されるほどガサツにアホそうに振る舞ってみるしかないか――。


 悶々と考えているうちに、どうぞと淡々と告げられた言葉。私がパッと顔を上げると、そこにあったのは扉だった。恐らく、裏口だ。しまった、ここまで来るなら通路くらい覚えておけば良かったと思いながら、同時に「何で裏口?」とつい疑問が口を突いて出てしまう。
 すると、私を先導していたセキュリティはフっと鼻から抜けるように笑って見せた。

「そりゃあ、君が今すぐ帰りたいって顔をしていたからだな」


 ――あ、と開いた口が固まる。
 そうだ、どうしてこの聞き覚えのある声で気づかなかったのだろうか。こんなにも印象的な声をしているのに。セキュリティの男が軽くクラブのロゴが入ったキャップのつばを親指で持ち上げると、透き通るようなグリーンアイがニヤリと笑った。

「歩きタバコの人……」
「おいおい、助けてもらっておいてそりゃあないぜ」

 どうやら長い髪は一つに括っているようだ。わざとらしく此方を見遣りながら言われたので、とりあえず礼を言っておく。わざと他の席に案内すると言ったのだと気づくまで、ラグがあった。

「このクラブのスタッフだったんですか」
「まあ、一時的な小遣い稼ぎだよ。あんまり期待はするな」
「してねーよ」

 どうしてこの手の男とは、最初会った時に狙われていると勘違いするのだろうか。
 そんなに私は男を好きそうな顔をしているか――? と自問し、頭の中で「確かにしてるな」と一人納得した。モテる男は大変だなあ、と皮肉にその彫りの深い顔を睨むと、彼はおどけたように軽く喉を鳴らした。

「冗談だ。――さて、お転婆さんはそろそろ帰る時間だ」
「はーい。……ね、このクラブってさ」

 短期とは言え、スタッフの彼なら何か話を聞けるのでは。
 私は何気なくクラブのことを尋ねようとして――。勢いよく裏口の扉を開けた。

 バンっ、と建付けの悪い裏口は、店の備品が積んであるらしいダンボールに当たって跳ね返る。扉の外に、息を切らして飛び出したが、その路地には特に誰がいるわけではなかった。

「……聞き間違い?」

 私は鎖骨あたりを掻きながら、先ほど鼓膜を震わせた声を何度も反復した。飛び出した私を不思議がるようにして、黒髪の男は軽く腰を折り、私と同じように周囲を見遣る。

「何かあったか」
「――ううん。なんでも……ないと思う。ごめんなさい、乱暴に開けた」
「俺のモンじゃないし、構わんよ。君についての情報に暴れん坊の項目が増えただけだ」
「そーとー禄でもない情報になってるだろうね、そのファイル」

 私は軽く笑ってから、もう一度男に礼を言った。
 男はあっけらかんとして、以前会った時のように軽く手をひらつかせる。黒いスタッフTシャツの上からでもよく鍛えていることの分かる体は、確かに女にモテるのかもなあ、と少し遠くから眺めて思った。

「まさかな」

 独り言ちる言葉は、誰もいない路地に虚しく響く。まさか、あの時聞こえたのが――聞き覚えのある、諸伏の声だと思っただなんて。でも、確かに聞こえたのだ。たった一言の、変わらない低い声。

『良いか、ライ』

 はっきりと、ビリビリと、鼓膜を揺すった言葉。
 これが幻聴だとしたら、相当勧められた酒が悪かったのかもしれない。はー、と長い溜息をついて、同僚に連絡を取る。

 仮にそれが諸伏だったとして、諸伏に会えたとして、私は何を言うのだろう。
 あの裏口の先に何もなかったことに、ホっとしていた自分が恨めしくてしょうがなかった。違う、彼の無事を確認出来たら、良いことではないか。


 今は、帰りたい。萩原の待つ、あの部屋で、ふわふわにベッドメイクされた布団に潜って、メンソールの煙草とシトラス系の香水が混ざるような香りを嗅いでいたい。

prev さよなら、スクリーン next

Shhh...