スリーピングフォレスト

 
 踏切が、目の前を赤くチカチカと光らせる。憂鬱な金曜日だった。
 数日前、大学から付き合っていた彼氏と別れた。誠実な人だった。好きな人ができたのだということを、ひどくすまなそうに、泣き出しそうな顔で告げる人だった。彼があんまりに泣きそうで、苦しそうに言うから、私は上手に感情を吐き出せないまま、笑ってしまった。
 ――後悔は遅れてやってくるものだ。
 週末は彼氏の仕事が早く終わるから、私の職場の前に迎えにくるのが日常だった。マンションへの道のりを一人で歩くのは、いつぶりだろう。飲みにいく集団の喧騒だとか、かつての私たちのように二人手を繋いで会話を交わす姿だとかが、いつも以上に目につく。虚しいなあと、思った。

 むしゃくしゃする。かといって、飲み屋に寄る気分にはなれず、私はぼうっと光に吸われるようにコンビニに立ち寄る。缶ハイでも買って、家で飲もうと、惣菜とまとめて籠に入れた。週末のレジはそれなりに混みあっていて、私は疲れを押し殺せず欠伸をしながら前の男の背中を眺めていた。

 こうしていると、コンビニにいる人間は全員虚しい人間の集まりなのではないか――?と失礼極まりない考えも浮かび、心の中でほくそ笑む。会計をしていると、レシートの用紙が切れてしまったらしい。新人の店員がやや手際悪くストックを取り出していた。見ているのも気まずくて、店内をぐるっと見渡して時間を潰す。

 ――やけに、目につく男がいた。リクルートでも見ないほどの真っ黒なスーツとネクタイに、サングラス――どこぞのSPのような背格好の男だ。SPにしてはだらしない、パーマをかけたような髪をくしゃっとさせて、彼はコピー機の前に立っていた。財布を取り出し、小さなカードをコピー機に挟む。免許証か保険証か――恐らくそういうものだと思う。
 コピーが終わり、立ち去る彼の一部始終を眺めて、はっとする。コピー機の中のカードが、そのまま取り残されている。

「あっ」

 思わず声が上がった。
 レシートと品物を少し乱雑に受け取って、コピー機の中に挟まったカードを取る。車の免許証だった。駐車場に止まった車に乗り込む男を、私は慌てて引き留めた。

「お兄さん、忘れ物!」
「……あ?」

 見た目よりも、高い声色だった。掠れた「あ」という発音が、昼間より冷えた空気に溶ける。
 男はサングラスを軽く下げて、私の手元を覗く。私もつい、その視線と共に掌を見た。免許証には松田陣平≠ニいう文字と、目の前の男より少し幼いような風貌の青年が写っていた。

「ああ、悪い。俺のだわ」
「いえ……」

 私は免許証を手渡し――、ぱちぱちと瞬いた。松田、陣平――。考え込んだ頭が、私の唇の裏側を突いて、「まつだ」と呟く。陣、というのが珍しい字面だったから、覚えていた。いつまでも免許証を持ったままの私に、男は軽く小首を傾げる。

「松田、だよね。高槻だけど……」

 松田は、その名前を聞いて数秒置くと、「おー」と少しだけ大きくリアクションした。
「なんだよ、髪染めてるから気づかなかったわ」
 はは、と軽く笑った声色は、やっぱり聞き覚えがある。黒いサングラスがちゃっと顔から外された。相変わらず悪戯っぽい子どものような目つきをしているが、記憶の中の彼よりぐっと男らしく、色っぽく思える。


 松田は小学、中学の同窓生だった。家も近く、小学校の時は通学班が一緒だったので、よく一緒になって遊んだものだ。昔から器用で、頭が良く、しかしそれを鼻に掛ける子どもだったので、同じクラスの女の子とは折り合いが悪かった。嫌われ者ではなかったけれど、学級会では「じんぺー君が掃除しません」と取り上げられるのが日常茶飯事だった思い出がある。


 懐かしいなあ、私の沈んでいた心が僅かに浮かぶ気がする。「久しぶりだね」と笑うと、彼も軽く車の扉に凭れて「だな」と相槌を打った。

「つか、今はこの辺に住んでんのか」
「うん、そうだよ。職場も近いから……松田は?」
「近かったら車で来てねー。もうちょい都心」

 なるほど、それもそうか。駅から近いコンビニに車で来ているのだから、此処からは少し距離があると考えるのが自然だ。何か用事のついでに寄ったのだろう。何か――まで尋ねるのには、少し勇気が要った。彼と話すのは高校の同窓会以来だ。成人式では特に顔を合わせることもなかったから。

 私が少し言葉につっかえていると、松田がドアを開けた。私を一瞥すると軽く顎をしゃくる。

「乗れば」
 ぶっきらぼうな言葉だった。それを聞くと、私の覚えている松田と何ら変わらないような気がして、つっかえた私の喉元もスっとした。昔もそうだった。本当は優しいのに、どうしてかぶっきらぼうだったり、いけ好かない言葉ばかり使う奴だ。
「良いの?」
「良くなきゃ言わないだろ。荷物重そうだし」
 だし、あたりはほぼ半笑いだった。どっさりと買いこんだチューハイと惣菜が、少し恥ずかしくて頬を掻く。
 その言葉に甘えて助手席に乗り込むと、相変わらずの意地悪っぽい目つきがニヤっと笑っている。

「ちなみにソレ、一人用」
 だなんてわざとらしく聞くから、ムっとして少し乱暴に返した。
「そーだよ、フラれたもん。つい一昨日」
「マジか、長かった」
「うん。大学の時から」
 語尾の上がらない尋ね方が、変わっているなあと思った。淡々とした口調が疑問文だと気づくのに、ほんの少しラグがあったくらいだ。

「お前、昔からモテてたもんな」
「わざと言ってるでしょ。中学の時だってフラれたの知ってるくせに」
「泣きまくって授業中断になったヤツ? 伝説だな」

 笑いながら、彼はダッシュボードに乗せた煙草のケースを軽く振り、一本飛び出た先を食む。紺色のピース。多分、松田もほぼ無意識で咥えたのだろう。私のことを一瞥すると、ライターを手にしながら「吸っていも良いか」と尋ねた。
 正直煙草はあまり好きな方じゃない。ただ、松田が煙草を吸うというのが、かつての子どもではない――ということを否でも意識させて、ついドキリとしてしまった。鼓動を誤魔化すように良いよ、と頷く。火を点けて、最初の一吸いを深く胸に溜める仕草は、やっぱり大人っぽく思える。
「松田も、モテてたよね。特に中学くらいからさ」
「そうかぁ? ぜんっぜん自覚ねーわ」
「背伸びたもんね。小学校のときはチビだったのに」
「チビは余計だろ」
 小学校のガキなんてそんなもんだっつーの。松田は少し煙草を噛むようにして喋る。踏切がカンカンと音を響かせていた。
 確かに、松田はそんなに小さくもなかった。クラスでも半ばより少し小さいくらいだったと思う。それでも彼がチビだチビだと揶揄われていたのは、彼がいつも長身の少年とくっついていた所為だ。名前は何といっただろう――クラスが同じになることもなかったので、忘れてしまったが――。


「家、この辺で良いか」

 松田は私のマンション近くの路地に車を寄せる。昔話に花を咲かせていたら、ひどく短い時間に感じた。歯切れ悪く「あ、うん」と頷くと、松田が掠れた声で「なんだよ」と笑う。
 名残惜しかった。折角何年振りかに会えたのに。彼のふざけたようで落ち着いた語り口が、虚しさをかき消すようで、半分くらいは利用していたかもしれないが。松田の自宅とは少し距離があると言っていた、また会えるかは分からないだろう。

「や、ちょっと一人で飲むの虚しくなっちゃって」
 ――少し、あざとすぎるだろうか。本音ではあった。狙っている――というには切り替えが早すぎるが、もし家に上げたせいで一度の行為があっても、松田なら良いかなと思った。彼が良い奴であるのは知っていたし、昔の面影から零れる色っぽさに、クラっとしていた。
 松田は、私の言葉を聞いて少しだけ驚いたように目を丸くした。それから、私の頭を軽く撫でつける。わしゃわしゃと雑な撫でつけ方だったが、力は入っていなかった。


「いっちょまえに女になってんじゃね、バーカ」


 わざとガキっぽくした言葉の節からは、煙草の匂いが香る。一丁前に男になったのは、そっちのくせに。私は拗ねたように口を曲げる。松田はそれを見て笑った。少し安心したような顔にも思えた。
「何ほっとしてんだよ〜……」
「そりゃお前、過ちは一瞬、友情は一生だからだよ」
 遠回しにフラれたのだと、さすがに分かる。少し寂しいが、しょうがない。私はここまで送ってくれた礼を言うと、荷物を持ってドアを開けた。松田は真っ黒なネクタイを軽く緩めて、息苦しそうに煙草の煙をふかした。ツンっと尖った鼻先が、横顔になると尚更際立って、やっぱり格好いいと思ってしまう。
 私はその煩悩を振り払うようにして、じゃあと別れの挨拶に切り替えた。

「そっちも、元気でやれよ」
「ありがと。……友情っていえば」
 ふと頭に浮かんだのは、松田の横に並んでいた細身のノッポな少年だ。中学の時もよく一緒につるんでいるのを見たので、それこそ一生ものの友情だったのかもしれない。

 フっと、振り向いてそのことを切り出そうとして――体勢を崩した。私のジャケットを、男にしては細い指が力強く引いたからだ。柔らかな感触が、唇に押しつけられた。押しつけた拍子に、剥けた皮がちくっと唇を刺激した。
 驚いて見開いた目は、意地悪っぽい目つきが苦しそうに歪むのを捉えた。まるで、その先を言わないでくれと懇願するように、目に張られた涙の膜が揺らいで光る。

「ん、ン」

 その手が緩むと、松田は揺らいだ目を隠すようにサングラスを掛けた。


「……悪い」
「……え、あ……」


 掠れた声。私も頷いた。ドクドクと心臓が五月蠅いことに、ようやく気付く。哀し気な、気だるげな顔が、何故か心を惹きつけた。「松田」――名前を呼ぶと、松田は口元だけでふっと笑った。それ以上、言及はできず、私はエンジンの音を見送ることしかできなかった。
「もー……やっぱ惜しいことしたかなあ」
 私は軽く唇の感触を確かめるように指でなぞり、ふーっと長い溜息を吐くのだ。
 







(ここからは何も飛びません)