ロンググッバイ

 
 日が暮れると、冷たい風が肩を震わせた。ノースリーブのニットには、その空気はあまりに残酷に冷たく、私は小さくくしゃみをしながら肌を摩る。これも全部、あの酔っ払いのせいだ。酔っ払いながら、私の上着が温かいと剥ぎ取られた。だから酒はほどほどにしておけと、いくら口酸っぱく言いつけても聞きやしない。――まあ、確かにその、あどけない寝顔を見るのは一つ彼女の特権と言えなくもないけれど。

 行き交う人々に、私のように肩を摩る姿など一つもなく、なんだか虚しい気持ちになる。彼のことは好きだ――と思う。中学からの同級生で、ほとんど腐れ縁も同然で――。告白をしあったわけでもなく、ただ二人気が合ってよく一緒にいたから、気づけば恋人という立場になっていた。そういう恋人だった。
 その所為か、あまり恋人として扱われたことはないように思う。肩を寄せ合う男女が、男もののジャケットに身を包み、幸せそうに笑う女が、やけに眩しく別次元のように見える。ただでさえ肌寒くて震えているというのに、その行為が私の心を余計に隙間だらけにするのだ。
「ハァ……」
 小さくため息をつく。先ほどの泥酔具合では、おそらく明日の休みも寝て過ごすのだろうなと思う。近頃はいつもそうだった。こちとら、送り迎えをする幼稚園のママではないのだ――そう怒るような気力も、ない。敢えて言うならば、願わくば、それならもう帰る家を同じにしてくれても良いのに。鞄の中に入った、彼氏のくれたキーケース。その中に一つ下がった彼の部屋の合鍵が、今はいやに重たく感じた。

 憂鬱に歩く私の視界を、ネオンがチラリと照らした。
 ブルーホワイトの、煌々とした色が、冬の月のようだ。然程大きくない看板と重たそうな扉に、私は足を止めていた。
 ――今日くらい、今日くらい、ね。
 彼の酒癖が悪いぶん、社会人になってから控えていた酒だったが、軽く呷ればこの寒さも紛れるかもしれない。初めての店に入るのは、緊張が半分、期待が半分。扉を押し開けると、カラカラとベルが鳴った。店主らしい男は私のことを見ると小さく微笑み頭を下げ、すぐにブランケットを取ってくれた。

「テーブルもカウンターも空いておりますが」
「あー……うんと、カウンターで。端っこって空いてます?」

 客足はまばらだった。今はあまり話をしたい気分でもなかったけれど、かといって他の人が見えないのは少し寂しかった。見た限り空いているだろう席を指すと、バーデンダーは申し訳なさそうに頭を下げる。

「すみません、あちらご予約のお客様が……」
「あ、良いです良いです。じゃあここ、座らせてもらいますね」

 謙虚そうな男にあははと愛想笑いを浮かべて、端から三つほど空けた場所に腰を下ろした。スッキリと嫌なことを追いやりたかったので、モスコミュールを頼んだ。しばらくバーの中のオレンジがかった、温かなライトをぼうっと眺めながら、ブランケットを握りしめた。――お酒は好きだ。昔から、飲みっぷりが良いねと友人からも上司からも言われるほうだった。こんなふうに、好きなようにお酒を飲むことが久しぶりであることに、いつもの窮屈さを実感させられる。
 小麦色の中に小さく弾ける泡を見つめて、差し出されたグラスを傾けた。冷たく、喉に爽快感とツンとした苦みが広がった。その苦みさえ懐かしくて、じわりと涙を浮かべていた時だ。

 あまりに乱暴な足取りだった。どっかり、という効果音が丁度良い座り方で、目の端に座った男がいた。私が先ほど座ろうとしていた、端の席――。「ああ、例の予約の」と振り向き、私はあわててバっと視線を逸らす。じんわりと浮かんだ涙など、一瞬で引っ込んだ。
 ――いやいやいや、早く飲み終わって帰ろう。
 ペースをアップして、ロンググラスに注がれたカクテルをごくごくと喉を鳴らし流し込んでいく。せめて、ひっそりと席を変えてもらうとしよう。三つ隣に座った、その図体の大きさを、グラスに映して再確認する。

 外人、だろうか。一目で印象に残る、腰の下まで垂れた銀の髪。顔はそのたっぷりとした髪に隠れてよく見えないが、全身を包む黒いコートが、彼の髪を余計に目立たせていた。バーなんだから、コートくらい脱げばいいのに。そう思うのだが、バーデンダーは男を見ても顔色一つ変えず、声一つ掛けやしなかった。
 もしかして、案外常連とかだったり。迷いのない足取りで席に着いていたし、よく酒を飲みに来るのかも。外人なのだったら、図体が大きいのはまあ珍しくないのではないだろうか。
 一人勝手に納得した私は、今度はチラリ、と直接視線を彼の方に向けた。
 まじまじと眺めても、やはりその髪は地毛のようだ。そんなに毛量が多かったら邪魔ではないのかな、なんて考えていたら、彼はジロっとした風に視線をこちらに向けた。びく、と肩が勝手に震える。「あ、すみません」――だなんて口にする前に、彼は「ジントニック」と告げた。

 は、と間抜けに口を開いていたら、私の背後あたりからバーテンダーの返事が聞こえる。ああ、私ではなく注文をしたかっただけか。男の声は、掠れて威圧感があったものの、私はそれが少しセクシーだなんて感じた。注文をした彼の発音は別にネイティブなわけでもない。――「おい」。ほら、呼びかけるときもおい≠セなんて、まるで本当に日本人だ。――「おい」。

 男の視線が、真っすぐにこちらを向いた。
 ほかの人よりも、やや小ぶりな瞳が深い緑をしていることに、私はその時気づいた。あまりに目つきが悪くて、ほとんどそちらしか気にはならなかったけれど。今度は振り返ってもバーデンダーの姿はなくて、私ですか、なんて間抜けに尋ねたら、男は苛立たし気に軽く舌を打つ。

「何、見てやがる」
「……まあ、その、大きい外人さんだなーと。すみません、見すぎました」

 一瞬怯んだけれど、彼の口から出た田舎のヤンキーのような文句に、私の心は強気だった。だって、「何見てやがる」なんて。ふ、と私は頭を下げてから笑みが零れた。長い髪にグリーンアイ、高い鷲鼻。外国のモデルみたいだ。肌も、日本人とは違う色味の白さをしていて、オレンジの灯りは似合わなかった。そう、例えばあの看板みたいなブルーホワイトだったら、彼の肌がよく映えることだろう。

 彼は数秒私の顔を見つめてから、軽く鼻を鳴らした。
「まあ良い」
 と、青いパッケージから煙草を一本取り出す。しゅ、とマッチを擦ると、その先に火を灯した。
「マッチで点けるんですか、珍しい」
 ――銀座の風俗店でしか見たことないですよ。とはさすがに言わなかった。鼻が高いから、火を点ける際にやや俯く顔が――チープな言葉で言うなら、美しくて。まるでこの世のものじゃないようだ。例えるなら映画のワンシーンとか、画展の中の一枚とか。そういう感じ。
 ただ、彼のふかした煙は、今まで嗅いだどの煙草よりも臭くえぐみのある香りがした。私が小さくせき込むと、男は馬鹿にしたようにこちらを一瞥し、せせら笑う。

「ガキ」

 くく、と掠れた声が喉を鳴らした。やっぱり、ちょっと色っぽいと思えてしまう。ニヤリとすると、その白い歯に一本牙のような犬歯があるのが窺えた。どきりと鼓動が鳴る。――うんざりとした日常に、ぽっと、彼のいる場所だけ色がついているようだった。ブルーホワイトのネオンみたいに、彼の吸う煙草のパッケージの青色みたいに、いつもと違う刺激的な色。
 酒を勢いよく飲みすぎたのだろうか、少し頭がクラクラとする。
 氷で少し味の薄まったモスコミュールの残りを飲み干すと、バーテンダーにマンハッタンを注文する。「かしこまりました」の、「た」を告げる前に、ふうっと煙が私の視界を奪う。

「いや、ギムレットだ」
「――へ」

 ぎし、とすぐ隣の椅子が軋む。隣に座ると、彼の図体の大きさは益々際立った。座っていても、当たり前のように私よりも大きな背丈も、肩幅の広さや腕の長さも、何もかもが私の知る男より大きい。臭いと評した香りが、すぐ傍で嗅ぐと何故か臭いよりも刺激的だという感想が勝ってしまう。私は顔をなんとか上げて彼を見上げた。男は、挑発的に目元を細く笑ませる。

「……ギムレット、ですか?」
「ああ、飲めねえか」

 ガキだしな。ぽつりと付け足されて、私は軽く眉間に皺を寄せた。私の酒に対する愛を知らないのだ。確かに女性にしてはキツく飲みづらいかもしれないが、そのくらい余裕である。私はバっと振り向き、バーテンダーに「やっぱりギムレットで」と注文を告げた。
 相変わらずニヤニヤと笑う男の顔は、なんだか化け狐のようだった。彼の現実離れした容姿が、余計にそう思わせるのかもしれない。しかし座る男に僅かに掠った腕からは、確かに彼の体温が伝わる。

「そっちだって、ジントニックなんて飲んでるくせに」
「は、言ってろ。……ん」

 ぴくり、と前髪に隠れた眉が動いたのが分かる。どこか気に食わなそうな顔。そんな苛立たし気な表情まで私の鼓動を少し五月蠅く鳴らすのだから、DV彼氏に捕まらなくて良かったと心から思った。私は軽く首を傾げる。男はぐっと、その高くしっかりとした鼻をこちらに近づけた――銀髪が、揺れる。長く伸びてはいるが、よく見ると毛先はそれほど艶めいているわけではなくて、野生動物の毛並みを思わせる。
 その鼻は私の首元に触れた。ツン、と高い鼻先が触れる。私の体が冷えていたせいか、鼻の先っぽが触れた場所だけやけに熱く感じた。そこからジワジワと火照っていく体を、私は慌ててブランケットで隠す。

「――気に入らねえ匂いだ」

 はぁ、と長く吐いた息からは、独特な煙草の匂いがする。
 匂いと言って思い浮かぶのは、香水くらいだ。別に何の変わりはない、ローズの香水だった。確かシャロン・ヴィンヤードがつけていたとかいって、一時女性の間で人気になった香りだ。上品で少し大人っぽくて、然程人を選ばないほうだとは思うのだが。少なくとも、今のこの男よりは大分クセのない香りのはずである。
 目の前にある瞳が、不機嫌に私を睨んだ。揺れる髪が、タイトスカートからはみ出た私の膝や腿を擽っていく。最初はドキドキと小さく鳴っていた鼓動さえ、今はド、ド、ドと体を揺らすような大きなものになっていた。

 ――駄目だ、と思った。
 このままでは、そのまま彼に引き込まれてしまいそうだ。引き込まれるというか、沈めこまれるというか。じっとりとこちらを睨む深い緑の瞳が、私にはブラックホールか奈落に見える。これに落ちたら、二度と這いずっても戻ってこれないと、分かってしまう。

 私には、穏やかな平穏があった。酒癖こそ悪いけれど、互いにゲームをして、笑いあって、たまにドジな恋人と過ごした平穏が。料理を失敗したり、ペットショップに行って将来飼いたいねだなんて話合ったり、職場の愚痴を零したり――。
 今、この男に落ちてしまったら、それがすべて壊れてしまう。それは、駄目だ。ごくりと鳴らした喉を、その瞳がジィっと見つめていた。一挙一動、獲物を逃さない獣のように、見つめていた。 

「ギムレットです」

 固まった私に助け舟をだすように、すっとカクテルグラスがカウンターに置かれる。
 私はほっとして息をつく。去っていくバーテンダーに礼を述べた。それがいけなかったのかもしれない。獣の前で、油断をしたのが間違いだったのかも、しれない。
 
 彼の大きく固い手が、私のブランケットの中にある冷えた肩を引き寄せた。「え」と、何度か瞬いているうちに、口の中に苦みが広がった。下唇に引っかかった犬歯で、ようやくこの男の唇がそこにあることに気づく。少し遅れて、舌の溝を伝うようにジンウィスキーの凜とした味と、少しの甘みを感じた。
 ギムレットの味なんて、ほとんどしなかった。殆ど、この男の煙草の味で口内がいっぱいだ。鼻を辿って、頭の奥まで痺れてしまうような味だった。ローズの華やかな香りが、私の鼻や舌から消えていく。ピリピリと痺れるような、腐ったような香りに、彼氏が好きだと言っていた香水など掻き消されていく。

 しばらくして、口が離れた。彼は大きな手の太い指先で、私の耳のピアスを軽く弾いた。

「ふ、ガキ」

 くつ、と唇の片側が持ち上がる。こんな酒で酔っぱらうはずなどないのだが、頭の中はグラグラと揺れていて、なんだか浮いたような心地がする。臭いと思った香りに、苦いと思った味に、このまま溺れていきたいと思った。私がその肩に小さく唇を寄せると、男は可笑しそうに笑ってから、先ほどまで熱く引き寄せていた肩を押しのける。

「I suppose it's a bit too early for a gimlet...」

 男は吐き捨てるように言うと、席に置いてあったハットを被り、店のベルを鳴らしていった。その後にも彼の残り香が色濃く残っていて、私はただその背中をぽかんと眺めるしかなかったのだ。
 置いていかれた私を見て、バーテンダーが肩を竦めた。「お客さん、良いですねぇ」と。私は首を傾げてどういう意味だと尋ねると、バーテンダーは私にチェイサーを出しながら笑った。

「ギムレットには早すぎる=Aまだお前と離れたくないけど、これが別れだって意味ですよ」

 私はその透明なカクテルを見つめること数秒、一万円札をカウンターに叩き置くと、慌てて男の後を追った。しかし、どれだけ追えど、あんなに目立つ彼の銀髪の一本すら、見当たることはなかったのだ。やっぱり、溺れなかったのは間違いだろうか。今となっては、その判断は難しかった。
 
 







(ここからは何も飛びません)