カット・ザ・ケーキ

 ――人生史上で最低の誕生日を迎えた。

 追い出されたマンションに悪態をつきながら、私は荷物を詰め込んだキャリーケースを引いていく。アスファルトまで喧嘩を売りつけるように、時折キャリーケースのタイヤをガタンガタンと跳ねさせた。
 はあ、と重たい溜息が零れる。
 よりによって、今日は私の誕生日だった。誕生日にロクな思い出があるわけじゃあないけれど、今年は一味違ったのだ。愛おしい恋人がいた。やや自分語りが好きなところもあったけれど、格好良くて優しくて頼り甲斐があって、良い人だったと思う。

「くっそ〜、何もこのタイミングでバレなくたって良いじゃんかー……」

 手首についた、遊園地で買った安物のブレスレット。洒落たものじゃなかったけれど、彼氏が初めてのデートで冗談半分に買ってくれた。それが私には輝いて見えて、嬉しくて、彼が「もう外しなよ」なんて笑ってもずっとつけていたのに。
 細いチェーンを引きちぎるように取って、それを近くの側溝にぶち込む。軽い金属は、大した音もたてずに濁った水に沈んでいった。

 それを見送っていると、じわじわと涙が浮かんできた。
 私はそれを慌てて拭って、ぐっと口を噤む。口を開いたら、我慢している泣き言が全部零れてしまいそうだった。
 帰る場所もない。とにかく、一晩――この最悪な誕生日を過ごす場所を見つけなければ。大した金もなくて、最悪誰か男を捕まえて、一晩くらい過ごさせてくれないだろうかと思った。人と話していたほうが、今にも泣き出しそうな感情を誤魔化せるような気もした。


 私は馴染みあるクラブハウスに足を運ぶことにした。
 あそこなら、知り合いも多いし、入場も顔パスだからお金がかからない。駅から少し離れた場所に家を借りていたせいで、歩く道のりはひどく長く感じる。強引に引きすぎたのか、途中でキャリーのタイヤが一輪外れてしまった。ごと、ごと。不規則な音がする。本当にツイていない。
 
 毎週末に通っていたクラブハウスは、早朝まで営業している。最悪、ここのバーで飲んだくれて眠ってしまおうか。受付の男に軽く手を振ると、彼も「なんだよ、珍し」と笑った。確かに、週末以外にここを訪れることはあまりなかった。


 生まれてから、この人生を楽だと思ったことは一度とない。
 手札など自分次第――とはある程度恵まれた人間が言えることで、本当に最悪最弱のカードを引いてしまった人間は、そこからの逆転を許されないのだ。それは、私が十かそこらで辿り着いた結論だった。
 
 私の父親は死刑囚だった。
 ――だった、というのは、既に死刑が執行されているからである。父親が殺した人――母、兄、祖母、隣人二名。計五名。殺害方法は、ガスによる毒殺と、様子を伺いに来た隣人の刺殺。私は当時まだ赤ん坊で、彼らの顔さえ覚えていない。父親の顔だって、殆どテレビの写真で知ったくらいである。
 私が助かったのは、午睡の時間で私だけリビングにいなかったからだ。これが私の最初で最後の幸運――いっそ、不運の始まりだったかもしれない。

 弁明させてほしい。私こそ父親の最大の被害者である。
 孤児院に入れられて、その中でもかなり露骨にイジメにあった。理由は私の父親が死刑囚だから。人殺しだからだ。
 その後も、小中高、バイト先、職場。どこにいってもその免罪符はついて回った。理由はすべて父親だった。特に高校三年の時、死刑執行で再びニュースに事件が取り上げられ、それからの当たりは悲惨だった。
 
 そうなると、私もだいぶ気性が荒くなるもので――。だって、何もしなくても向こうから喧嘩を吹っかけてくるんだから。
 私が人を殴れば、罵れば、やっぱり人殺しだと皆が口をそろえた。職場先でそのことが知られて、自主退職を勧められた時は、いよいよ私の人生オワコンだと思った。

 ロクでもない人間には、ロクな家も貸してくれないわけで。
 宿なしで彷徨っているときに、前の彼氏と出会ったのだ。もちろん、父のことは隠した。当たり前だ。ここで告白するやつは馬鹿だ。まあ、結局バレたけど。


 彼と暮らしたのは半年ほどだったけれど、穏やかな時間だった。家族もいなかったので、こんなふうに愛してもらえたのが幸せだと思った。
「ふ、ぅう……」
 強めのウィスキーを呷って、私は嗚咽を漏らした。完全に酒のせいで涙腺がやられている。酒を飲めば飲むほど、恋人との思い出が過ぎって、一時間も経たないほどで完全に号泣していた。クラブでしか知らない友達が、心配そうにこちらに寄ってきてくれる。

「なに、どーしたの。今日飲み方えぐいじゃん」
「ふえ、ええーん、彼氏に追っ払われたぁ〜」
「げ、それマジなやつ? ほらほら、よしよしー」

 そういうと、彼女たちは慰めるように酒を勧めてくる。飲んで忘れちゃいなー、という言葉を受けて、私もすっかり酔っ払っていたので、ぐいぐいと酒を飲んだ。いつもは悪酔いすることなんて少ないのだけど、夜ごはんもまだだったし、早いペースの酒はみるみるうちに体を巡った。

「さいあく、も、いいことないしぃ……しにたいよぉー」

 えんえんと子どものようにゴネては酒を飲んで、最終的にワケの分からないことをたくさん呟いたかもしれない。

「しにてぇ〜……しんどい、もうなにしていきていくのさぁ」
「飲んで生きてくしかないってー」
「しにたいよぉ〜!」

 殆ど言葉の通じない動物だ。死にたいが鳴き声みたいなものだった。
 だがこの時ばっかりは、これでそのままアルコール中毒とかで死ねてしまったら幸せなのにと思った。自殺なんてするのは怖かったし、酒の力で死ねたら、苦しくないのにと。どうせ宿無しだし。仕事ないし、金もないし。

 酒の眠気と吐き気に負けそうになりながら、クラブの中を歩き回る。気持ち悪い。でも、その色とりどりのカラーボールの光に、虫のように吸い寄せられていた。綺麗だなー、上をみるとふわふわする。気持ち良いなあ。

「しにたいなぁー!」

 その低いような高いような、もうそれすら掴めない天井に手を伸ばして、私はそのまま引っ繰り返った。周りにいる何人かが「きゃあ」「うわ」と驚きの声を上げる。しかしそこから立ち上がる力は私にはなかった。
 周りのものはコンタクトを取った後みたいに全部ぼやけて見えたし、厚底を履いた脚は全然力が入らなかった。もうしょうがないな。これは死ぬっきゃないなあ。
 う、と気持ち悪いものが込み上げて、ダンゴムシのように蹲る。

「お姉さん、大丈夫。トイレ連れて行こうか」
「え、あぅ、うーん」

 声も、視界と同じでぼやけてしか聞こえなかった。「そうだね」とか、よく分からないままに答えた。ただ、それが男の声だというのは分かっていた。ヤられちゃうかな、良いかもな、別に。ほとんど感覚もないし気持ちよくはないだろうけど、コイツが不細工かどうかも分からないしね。ぐっと持ち上げられる体が、胃の不快感を高めた。セックス中に吐き出したらごめん、名前も知らない誰かよ。

「んん、おさけぇー。おさけのむよ」
「もう飲まないでしょ。それよりこっちおいでよ」

 声はけらけらと笑っていた。私も誰かが笑っているのにつられて、にへらっと間抜けに笑った。そこからの記憶は、ない――。








「――ッ」

 自分の寝息が、一瞬息を呑んで――それで目が覚めた。まだ頭はぐらぐらと揺れている。胃の中もスッキリはしなかったが、昨夜よりは視界が澄んで見えた。
 知らない天井だ。
 病院の白いものではない。彼氏の家でもない。よくありがちな、シーリングライトとクリーム色の壁紙。知らない天井だった。よく見れば、シンプルに整えられたベッドも知らないベッドだ。
 冷たいシーツに足を滑らせながら、誰か男の家かと思った。昨日酔いつぶれて――記憶はないが、男女関わらず誰かが拾ってくれたのだろう。ワンナイトを捧げていようが、一晩見捨てないでいてくれたことには感謝しなければ。

「あ、起きた」

 がちゃりと寝室の扉が開いて、一人の男が現れた。筆記するような特徴のない、黒い髪の男。韓国人のようなツンとした吊り目と、やや厚い下唇。正直、中々に好みだった。昨夜の私はよくやったと思う。
「すみません、ありがとう……」

 どうやら水を汲んできてくれたらしい。透明なグラスを受け取って、口をつける。彼はベッドの隅に軽く腰を掛けた。手に持ったビニール袋を引っ繰り返す。ころころと飛び出た四角い箱たちに、思わず『コンドームか!?』だなんて驚いてしまったが、よく見ると薬局で買える二日酔い用の薬だった。
 ――にしても、こんなにたくさん。
 緑、黒、赤、細長いパッケージをシーツの上に転がして、何事かと思った。まさかこれを全て飲めなんてことはあるまい。男は、少し照れ臭そうに頬を掻いて言った。

「ごめん、いつもどれ飲んでるか分からなくって」

 どれが良い? と尋ねる男に、私はいつも家に常備していたものを一つ指さした。
 なんというか、お人よしなのだなあと思った。一晩泊めただけの女に対する扱いとしては、百点満点だ。彼は薬を一回分切って、グラスとともにこちらに差し出してきた。

 さらさらと粉薬の苦みを口に放って、水で流し込む。その間にも、「大丈夫」と声を掛けてくれた。低い声。なんだか色っぽい。

 いやいや、ワンナイトするには当たりすぎるのではないだろうか。昨夜は顔など把握できていなかったはずなので、私の勘に感謝するしかない。あまりクラブには行かなそうな、堅実そうな男に見えるが、そういうところも格好良かった。

 あわよくば、記憶のあるときにもう一回いけないだろうか――?

 不純な考えが頭を過ぎっていく。だって、顔も良いし体も引き締まっているし、こんな男早々で会えるものじゃあない。浮気とかは嫌いだったけれど、幸い今はフリーだ。何も引き留めるものはないだろう。
 私は下心たっぷりに、デニムを履いた彼の太ももを、布団から飛び出た足の指先でチョイチョイと弄った。彼の吊った目つきが、驚いたように私を見る。
 私はぺろっと布団を捲って、なるべく色気を込めた声色で、「もっかい、いや?」

 しっかりを服を着こんだ男は、露骨に焦った様子を見せた。「あ、いや、その」とどもった言葉を続けて、頬を僅かに赤く染めていく。
 少し妙だなとは思ったのだ。
 クラブで酔っ払った女を持ち帰るような男だ。持ち帰った時点でヤリ目なのは確実だし、貞操を心配するような性格でもないはずだ。

 確かに見た目は、少し気が強そうなものの、遊び人っぽくはない。困ったように頭を掻いた男の表情を見て、私は怪訝に問いかけた。

「……もしかして、ヤってない?」

 私がそう言うと、男はガタン、と分かりやすいくらいに跳ねた足を、ベッドサイドの棚にぶつけていた。どうやら指先をぶつけたみたいで、跳ねたあと一人蹲って指を丸め込んでいる。あっちこっちと慌ただしい男だ。
 彼は痛みを堪えた後に、薄っすら涙の滲んだ眼で私を見上げた。

「その、してないよ。勝手に家に泊めたのは謝るけど」

 男はそう言うと、昨日のことを話し始めた。
 男曰く、私が酔っ払って、他の男がトイレに連れ込もうとしていたのを、彼が止めたのだと言う。身分証を見て送り届けようとしてくれたようだが、昨夜話した友人が「その子追い出されたばっからしい」と言ったから、ひとまず自宅に連れてきたのだと話した。
 
 私は安心と、少しがっかりしたような気持ちを混ぜこぜにしながら、そうなんだと相槌を打つ。連れ帰ったところと、周りを見渡す限り、典型的な男の一人暮らしのように感じた。

「一応君が持ってる鍵で、ロッカーの荷物は持ってきたけど……。これだけ?」
「あ、うん。本当にありがとう、助かったよ」
「こう言うのもなんだけど、ああいう飲み方はしちゃダメだ。変な奴につけこまれるよ」

 私のキャリーケースを引っ張り出しながら、彼はそのキツそうな眼でこちらを見る。しかし眉は八の字に下がっていて、こちらを案じた言葉だというのは理解できた。

「……だって、家なくしちゃったから」

 ぽつりと、呟いた。男が言葉にし辛そうに、一つ息を零す。

「それでもだ。自分は大切にしなきゃだろ」

 男はキツそうな顔つきを和らげて、腰に手を置くと気を取り直したように笑った。ベッドの中で気まずく膝を起こす私を横目に、寝室との仕切りを開けた。カーテンを閉めていたのは、寝ている私を気遣ってくれたからだろうか。白んだ光が目を刺して、頭がくらっとする。

「おいで。お腹空いただろ」

 男は少し呆れたように、頭を押さえた私を手招く。
 誰かの言うことを聞くのには慣れていた。だって、今までもそうしないと家がなかった。施設の先生には従わないと、当番という名前にかこつけてロクなことを押しつけられなかったし。彼の家では、彼が家主だった。働いても、一年続かないうちに身元がバレてしまったから、お金もなくて、その脛を齧るしかなかった。
 
 男の「おいで」という一言が、酔っぱらった頭にジィンと染みた。 
 まるで魔法の言葉だ。まだ足も体も頭も重たいけれど、私はその言葉に導かれるようにベッドから足を踏み出した。綺麗に掃除されたフローリング。新しい家みたいで、少しだけどきどきする。シンプルなウッド調のテーブルの前に、彼はクッションを置いた。

「嫌いなものとかあるか?」
「……納豆」
「美味しいのに。ちょっと待ってて」

 そう、男がキッチンに向かっている間、ぼーっとその部屋を見渡していた。
 綺麗にしているのもあるが、そもそも物が多くないのかもしれない。テーブルとクッション、部屋の隅に置かれたベース、テレビ。テレビ台に置かれた、男数人の写真のなかに彼もいた。友人との写真なのかもしれない。
「……?」
 その写真に写っている彼らは、独特な制服を着ている。警備員か、警察か。見分けはつかないけれど、薄青の胸元にはキラリと勲章が煌めいていた。

 穏やかな秋風に頬を撫でられて、今はそんな季節だったかと思う。その風が、頭痛をふわっと攫って行くような気がした。

 暫くすると、男は皿におにぎりと添え物、椀に味噌汁を注いでテーブルの上に置いた。どちらも暖かく、白く湯気をたてている。お腹が鳴った。そういえば、昨日は夕飯をとっていない。

 私は控えめに、彼の顔を見上げながらおにぎりに手を取った。男はニコ、と目を細める。小さく口に入れる。具材はなくて、海苔が巻いてあるだけの塩にぎりだ。気遣ってくれたのかご飯がそれしか余ってなかったのか、コンビニのものより二回りほど小ぶりなもの。きっと男の手には小さかっただろう。
 ほうれん草の和え物も、豆腐と揚げしか入ってない味噌汁も、気づくと口の中に放ってしまった。美味しい。味噌汁を飲んでいたら、少し涙が滲んだ。
 安心したせいで、昨日あったことにようやく感情が追いついたのか、涙は拭っても次から次に零れだす。

 男は、ただそれを見ていた。「泣くな」とも「大丈夫」とも言わず、私が皿を空にするまで、目の前に座って待っていた。味噌汁を全部飲み終えた時、彼は満足そうに笑った。



 彼の名前は、諸伏景光と言った。
 
 光の景色と書いて、景光。珍しいだろうと、彼は少し笑った。年齢は二十三歳、今年二十四になるらしい。一見、その吊った目つきだとか、涼やかな表情がクールに見える外見をしていたが、お人よしにニコっと笑う顔が印象に残る男だった。その実、私の知る二十三歳よりもよっぽど大人っぽいような、不思議な男だ。

「君は? 名前を聞いても良いか」
「百花――高槻百花。今日で、二十二歳」

 私はチラリと壁に飾られたシンプルな時計を見遣ってから、そう名乗った。

 最悪な誕生日。
 ちぎったプレゼント、冷蔵庫に仕舞われたまま開けられなかったバースデイケーキ、好きな人の怒鳴り声。それが、あなたに出会った日だった。





「お願いします、お金以外ならなんでもするんで!」

 頭をカーペットへ擦りつけた私に、諸伏は困ったように唸った。
 彼は優しく、昼飯までは面倒を見てくれたのだが、そこからふと不安になった。――そうだよ、私住む場所ないんだ。諸伏が出ていけと言えばそれまでである。
 家賃代わりに稼いだお金は彼氏と共通の口座に入れていたし、その通帳は元のマンションに置いてきてしまった。今財布の中にある金を使い終われば、言葉のまま文無しになってしまう。

「仕事が見つかって、お金が手に入るまでで良いから……! お願いします!」

 もう一度頭を下げると、彼は焦ったように首を振った。
 そもそも他人なので、面倒を見る義理はないと分かってはいた。それでもその僅かな人の好さに賭けずにはいられない。こちとら明日の生活が懸かっているのだ。
「無理に追い出したいわけじゃないんだ、頭を上げてくれ」
「じゃ、じゃあ……!」

 きっと彼の前世は仏かなにかだったに違いない。
 私は顔を輝かせて顔を持ち上げる。そこにあった彼の顔は、やや晴れない様子であった。私はその表情に僅かに首を傾げる。

 ――なんだ、この表情は。まさか見返りが欲しいのだろうか。

 うーん、と悩みながら、言葉を選ぶ。金以外なら差し出すことはできる。家事は全般仕込まれてきたし、これほどのイケメンなら性欲をぶつけられても嫌では――。と悶々とした考えを抱えていると、諸伏は後頭部をがしがしと掻きむしった。丸っこい猫毛は、荒い手つきで掻かれると何本かアホ毛を飛び出させる。

 彼は言葉を詰まらせた挙句、意を決したように告げた。

「オレ、警察なんだよ」
「あ、うん……?」

 別に警察に対して偏見があるわけじゃない。
 確かに警察がいなければ私の扱いも違ったかもしれないが、彼らのしている行為は正当だ。怨みもなにもないけれど。顔を斜めに傾けてだから、と問いかけると、諸伏は気まずそうに続ける。

「警官って同棲の条件が厳しくてさ。身辺調査とか、そういうのちゃんとして、してからでも婚約じゃない同棲って良い目で見られないんだよ」
「あ、分かった。じゃあ良いや、ありがとう」

 身辺調査だとか恐ろしい単語が聞こえたので、私はニコっと愛想笑いをしておいた。
 しょうがない。どうせ身辺調査されたらこの家にはいられない。私がさっと身を引いたのに、諸伏は少々意外そうに目を丸くした。

「良いの」
「だって、無理なものはしょうがないじゃん」
「土下座までしたのに」
「うーん……」

 きょとんとして、彼は何度か食い下がるように聞いた。
 まるでここに残って欲しいというような口ぶりだったので、それが不思議だ。彼に私を置いておくメリットはないし、単にものすごくお人よしとか。私が注がれた麦茶を飲みながら考えていると、諸伏は大きく息をついて姿勢を正した。

「警察だから追い出したいんじゃない。警察だから――いてほしいんだ」
「な、なんで」

 まさか、すでに素性がバレているのだろうか。
 確かに週刊誌に名前がすっぱ抜かれたことはあるけれど、それほど特殊な名前でもないつもりだ。警察官って、そんなに情報が早いものか。ぐるぐると思考を巡らせていると、彼は履いていたデニムのポケットから黒い皮生地のものを取り出した。――ドラマで見たことがある。畏まったように真剣な顔をして、それを此方に向けて開いた。

「オレは刑事部捜査第四課、諸伏巡査部長だ。君をここに住まわせることを条件に、クラブへの口利きを協力願いたい」
「お〜……マジでドラマみたい」
「――あのなあ、オレは真剣に言ってるんだけど」
「あのクラブ、そんなにヤバいの?」

 確かに行きつけのクラブで顔も広かったけれど、クラブなんてどこもあんな感じではないのだろうか。疑問に思って首を傾げると、諸伏は少しだけ怖い顔をした。眉間に浅く皺が寄る。

「詳しくは言えないけど、オレが調べているのは暴力団についてだ。表立って怪しさ満点なんて間抜けなことはしないさ……」

 そう言われてもピンとは来ない。VIPにも呼ばれたことがあるけれど、見るからにヤクザらしい人はどのクラブでも見るし。ただ、私は彼の見た目を見て、ふ、とつい笑ってしまった。

「だから髭はやしてるの? 似合わないからやめたら」
「……うるさいな」
 幼めの顔つきには似合わない無精ひげは何だか可愛らしくも見えて、彼は恥ずかしそうに軽く髭を掻いた。

「でも、良いよ。そういうことなら、お邪魔しようかな」
「――君が嫌なら、身元を調べることもしないよ。ありがとう、丁度捜査に行き詰まっていたんだ」
「たぶん、君がどう見てもクラブにいそうな見た目してないからだと思うけど?」

 私がそう肩を竦めると、諸伏はやっぱりかと残念そうに肩を落としていた。

 自分なりに調べてみたけれど、捜査第四課は通称『マル暴』と呼ばれる、暴力団に対する捜査組織らしい。調べれば調べるほど、厳つそうなお兄さんたちの画像やドラマが出てきて、益々似合わないなあとスマホを眺めながら思うのだった。










(ここからは何も飛びません)