02

 あれから、三年が経つ。
 当時中学三年生だった私は、高校生になった。あの後、案の定いじめ――とまではいかないが、意図的な仲間はずれが続き、気まずくなって少しだけ離れた高校を受けた。偏差値も悪くない私立高校だったので、両親も特に何も言わなかった。もしかしたら、私が地元から離れたがっていることを、なんとなく勘付いていたかもしれない。

 あの日から――私は昔から見えていた幽霊を、見ないフリを続けている。
 三年前までは、誰もいないときに時を見計らって会話をすることもあった。寂しそうにブランコを漕いでいる少女は話をすると花が咲くように笑ってくれたし、物知りな男が私の知らないような昔の話をしてくれるのは、嫌いじゃなかった。でも、もう良いのだ。私にとって大切なのは、今生きているこの世界だ。昔生きていた人じゃない。

 だから、もう良い。
 ぶつかりそうになった幽霊たちを、素知らぬフリで避けるのにももう慣れた。
 今の学校では、私は至極平和に学園生活を送っている。もう昔のように、妙な気持は起こさない。それで良い。

 昔から手先が器用で、物造りが好きだったので、手芸部に入った。
 気が合う友達もたくさんいたし、私の作ったものを「可愛い」と貰ってくれたりもする。純粋に、それが嬉しい。将来は服やアクセサリーを作ってみたいなあ。高校三年生、そろそろ進学にも頭を悩ます時期だった。



 
 ――昼休み、購買から帰ると、クラスが少しざわついていた。私は友達と顔を見合わせて、首を傾げる。皆が窓の外を眺めていたので、私たちも連なるようにして窓の外を覗いた。そして、二人そろって「えっ」と声を上げてしまった。

 私たちは三年生の校舎からは、隣にある実習棟の校舎がよく見える。実習棟は本校舎よりもやや低いので、三階からだと屋上が見えるほどの位置なのだ。
 その屋上に、私たちと同じ青い制服を着た女生徒が、誰かに羽交い絞めにされているのが見えた。

「何あれ、不審者!?」
「やだ、怖い……」

 教師が見ないようにと注意をするけれど、十代の好奇心はそれだけで消えるものではなかった。生徒は皆、乗り出すようにしてその様子を見ている。女生徒は、何かを叫ぶようにしてこちらに何かを訴えていた。

「何か言ってる」

 私はつい、ぽつりと呟いた。誰ともなく私の声を拾って、「本当だ」「なになに」と、伝搬していく。顔を隠した不審者も、それに気づいたらしい。――慌てたようにその口を塞ぐ寸前、誰かが、窓を開けた。


「――逃げて!! 爆弾よ!!!」


 確かに、そう聞こえた。その瞬間、クラスがパニックになったのは言うまでもない。私も友達も、他の生徒たちも。わあわあと叫びをあげてこぞって校舎の外に出ようとした。一つのクラスが騒ぎ立てると、そのパニックは学校全体へと広がっていく。
 私も、その一部だった。ひたすらに皆の波と共に外に走った。校庭に出なきゃ――。と、教員の話も聞かず足を進めていた時だった。

 その波に逆らうようにして、一人だけ――一人だけ、足を別方向に向ける人影を見た。

 しかも、驚くべきことに、その人影は幽霊ではない。本物の人間だ。
 後ろ姿だけだったから、どんな子かは分からなかったけれど、その制服は生徒のものだ。私よりも、少しだけ高い背丈だろうか。慌てて、その手首を掴む。

「危ないよ、早くいかなきゃ」

 震える声で告げると、手首を掴まれたことに驚いたのか、その視線がこちらを振り向いた。――日本人離れした、綺麗なグリーンアイだった。それだけで、すぐに分かった。この高校の生徒には、ちょっとした有名人が二人いる。その片割れ――ハーフの女子高生探偵。

 彼女は男だと見紛うような鋭い目つきを、少しだけ和らげた。そして不敵に笑って、「大丈夫」と言うのだ。
 ――大丈夫なもんか! だって、彼女は生きている。
 そう思ったけれど、私の引き留める力よりも、彼女が腕を振りほどく力のほうが強かった。彼女はその短いスカートを翻して、長い足を前へ進める。一瞬、戸惑う。いやいや、私が追ってどうなるっていうんだ。あとで教師に伝えれば大丈夫。


 私は思い直して踵を返す。はやく行こう。彼女以外、流れに逆らう人影は幽霊しかいなかったのだから、きっと大丈夫だ。





 私たちは、校庭に避難をした。別に教師からの指示があったわけでもなくて、なんとなく校舎の中よりは安全だと、全員が思っていたのだろう。だって、校舎だと逃げ場がないような気がするじゃないか。慌てて追いついた教員が、私たちを一か所に集め、整列させる。

 私はその列から抜けて、教師のもとへと駆け寄った。先ほどの彼女の一件を、話しておかなくてはと思ったからだ。もし何かあったら、さすがに罪悪感で死にたくなってしまう。


「先生、あの、さっき――」
『危ねぇ!!』


 頭上から聞こえた声に、私は反射的に上を見上げていた。その声に被さるようにして、爆発音。割れたガラスの破片や壁の瓦礫が私の頭上に向かって降り注いでいて、私は情けなく悲鳴を上げながら、間一髪でそれを避けた。

「高槻さん! 大丈夫?」
「あ、は、はい……」

 ドクンドクンと鼓動が体を軋ませるように鳴り響いていた。落ちてきた瓦礫は、見上げたものよりも余程大きく見える。周囲の悲鳴が遠く聞こえた。もし、もし――こんなものが頭に当たっていたら。そう考えると、全身から血が引いていくのが分かった。

 やっぱり、らしくないことをするものじゃない。

 私はおとなしく、群衆に紛れておくべきだったのだ。冷たくなった指先を、養護教諭が優しく取った。「大丈夫」「しっかり」と励まされて、私はぐぐっと涙が零れそうになった。怖い。私はまだ、一人ぼっちの世界に行きたくはない。
 年甲斐もなくグズ、と鼻を啜る。でも、さっきの子のことだけは、せめて伝えないと。

「あの、さっき、二年のハーフの子が……校舎の方に行っちゃって」
「世良か? 分かった、あとは警察に任せよう」

 という先生の言葉に、私はただ泣いて頷いた。
 友達も、先生も、肩を叩いてくれた。私にしてはよくやったほうだ。毛布を掛けられて、まるで私は被害者のような恰好で校庭に蹲っていた。

 パトカーのサイレンが近づいてくる。
 ばたばたと機動隊員が校舎に近づいて、専門用語が飛び交っていく。生徒たちは親の送迎によって、ぽつぽつと姿を消していた。
 しばらくすると、ざわめきが大きくなった。
 そのざわめきの方に視線を遣れば、先ほどの彼女――教師は世良と言っていたか――が、自分よりも身の丈のある不審者を引きずって、不敵な笑みを浮かべていた。後ろから、先ほどまで掴まっていた女生徒が泣いている。

「ありがとう、世良さん。本当にありがとう……」
「キミが勇気を出してくれたお陰さ。よく頑張ったね」

 世良は、その泣いている生徒の頭を軽く撫でた。
 まるで――まるで、小説や漫画の主人公のようだった。すごい。自分よりもずっと大きくて、凶器だって持っていたかもしれない。どうしてそんな風に立ち向かえるのだろうか。私はその様子をぼうっと見ていた。


 私は端役だ。
 そして、そうであることを選んだのは自分だ。
 だって、群衆から離れるとロクなことがないんだもの。挨拶を無視されるし、あることないこと噂が立つし、さっきみたいに命に関わることだってある。だけど――時々。本当に時々、彼女のような人を見ると、それが羨ましく思える時もあった。

 昔、一人で泣いている少女の幽霊に話しかけたとき、私もあんなふうに泣きながら微笑んで貰えたなあと――。そう思い出すときが、ある。


 その後、地元が離れた私にも母親が迎えに来て、母親はポロポロと泣きながら「無事で良かった」と言ってくれた。帰りには私の好きなアイスを買ってくれて、家に帰ってから私は制服のままボスンとベッドに倒れこむ。

 疲れた。夕飯まで時間もあるから、早めに寝てしまおうかな。ああ、その前にスカートだけでも脱がないと。ふー、と大きく息をつく。

『おい』

 ぴくっと頬が引きつった。この声――この響き方――。長年同じように聞いているから、こうして静かな空間であれば聞き分けがつく。これは幽霊の声だった。
 ――はい、無視。知らないフリ。
 狸寝入りを続けていると、もう一度苛立たし気な声色が『おい、お前』と呼んだ。ずいぶん不遜な幽霊である。生意気そうな声色からして、若い男だろうか。幽霊になったからって女子高校生の部屋を覗くとは、なかなか欲望に正直な奴だ。

『聞こえてんだろ。起きろ』
「いだっ!」

 べしっと額を叩かれて、私はつい声を上げてしまった。
 ぱちっと目を開けると、目の前にあった顔も私と同じように驚いた顔をしている。――そりゃ、そうだろう。本来幽霊はこの世のものに触れない。私が知る限り、彼らが触れられるのは唯一私だけだ。

 まずい、と思った。
 しかし、同じくらい目の前にある顔に惚けてもいた。声色と同じ生意気そうな目つきと、細い鼻筋、薄くニヒルな雰囲気の唇、意思の強さを思わせる、少し太い眉。

『お前……』

 不思議そうに、彼はこちらを覗き込んだ。その距離の近さが、私の体温を上昇させていく。パーマを掛けたような癖毛から、キラ、と光る瞳が覗いた。――いやいや、駄目。知らないフリしないと! 思い直すようにリビングのほうへ向かおうとしたら、回り込むようにして彼はもう一度私の目の前に立ちはだかる。

 腰を少し曲げて、考え込むように人差し指で自身の上唇をなぞった。
『やっぱ、見えてんな』
 見えてません、という風を装いたかったのに――彼がそのツンとした鼻先を私の鼻先とくっつけるほど近くに寄るから、私は顔を真っ赤にしてしまった。  


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Shhh...