06


「ちょっと額が切れただけですね。縫わなくても大丈夫でしょう」
「そ、そうですか……」

 私はホっと安堵の息をついた。良かった。頭だったから、変なところをぶつけていないなら良かった。私は頭を下げて、せめて治療費は払わせてほしいと少女に告げた。少女はその気の強そうな眉をやや下げて、「いえ、その」と何度か口ごもる。
 
「本当ごめんね。ちょっと急いでて」
「急いでいたのはこちらもなので、気にしないで」

 頭に仰々しい包帯を巻いて、少女は大人っぽく苦笑いを浮かべた。
 ――透き通ったグリーンアイに、つい世良を思い出す。彼女の瞳と同じように、澄んだ虹彩をしている。淡い翡翠色には、私の表情が浮かんでいるのが分かりやすく映っていた。

「あ、何か飲み物買ってくるよ。何が良い?」
「……じゃあ、紅茶を」

 分かったと、私は一つ相槌を打ち、病院の待合室付近にある自販機に向かった。ずいぶんと大人びた子だ。私だったら、頭から血が出たら泣いている。彼女に恩を着せてもどうにかなるわけじゃなかったが、その顔つきや瞳がどことなく世良に似ていたから、つい気に掛けてしまう。先ほど、あんなことを言ってしまったから――どこか贖罪の気持ちもあったのかもしれない。



 自販機でペットボトルの紅茶を二本買い、エレベーターに戻すすれ違い様だった。どんっと誰かと肩がぶつかる。今日はどうにも、曲がり角にツイていない。しかし、今度は私は歩いていただけで、相手方に非があるように思えた。

「いたっ」

 強い力に顔を歪めて、ぶつかった方を振り向いた。がしゃん、と金具の音が響く。どうやら工具箱を持っていたらしく、私がぶつかった拍子に床にばらまいてしまった。私は悪くないのかもしれないが、反射的に「すみません」と謝ってしまう。無視するのも良くないと思い、落ちた工具を拾い集めていると、チッ、と舌を打つ音が降りかかる。

「え……?」

 顔を上げると、ぶつかったらしい男は工具を受け取ることもなく足早に立ち去ってしまった。キャップを深く被っていて、顔こそよく見えなかったが、ずいぶん体格の小さな男だった。
「うそでしょ」
 私は取り残された工具箱を片手に持って、ため息をついた。確かにぶつかったのは悪かったが、そんなに怒ることないのに。工具箱、どうすれば良いんだろう。
 とりあえず、元の階に戻って、フロントかどこかに届けよう。そう思いエレベーターのボタンを押そうとした時だ。

『高槻!』

 がし、と肩を勢いよく掴まれた。驚いてがっちゃん、と工具箱を取り落とす。病院の白く密閉された廊下に、その金属音は大きく響いた。
 傍から見たら、急に後ずさって物を放り投げた女である。こういう時に、向こうから干渉できるというのは考え物だ。恐らく、今唯一私の霊感体質を知っているであろう男は、私を無理やりに振り向かせると、どこか安心したように小さく息をついた。

「ま、松田さん。どうしたの」

 目を丸くして、彼の姿を見つめると、松田はその癖毛を掻きむしりながらエレベーターの方を見た。そして、少しだけ無言になる。落ちた工具箱を拾い、見比べてから、もう一度私の肩をしっかりと掴んだ。

『……警察、呼べ』

 びくりと、私は肩を大きく揺らす。
 どうしてと聞き返す前に、『良いから、俺の言う通りに言え』と余裕のない声色が指示を出す。――犯人を捕まえたいという男が、まさか冗談でそんなことを言うとも思えなかった。私はスマートフォンを取り出して、恐る恐る、幼いころから番号は知っているけれど一度として掛けたことのない番号を入力する。

 電話に出たのは、年若そうな声の男で、私はどぎまぎとしながら松田の方を見返した。そして、彼の言う通りの台詞を繰り返す。病院内の北エレベーターで時限式の爆弾を発見しました、まだ周囲には知らせていません。繰り返して、自分自身で「え!」と大きく声をあげてしまった。

「もしもし、どうかしましたか?」
『バカ、続けろ。IED爆弾と思われる形状で、大きさは――』

 私は震える声のまま、松田の言うことを繰り返した。体の中で、心臓があちこちに跳ねているような気分だ。携帯はつないだままでと言われ、私はそのまま「病院の人に報せなきゃ」と踵を返した。

 その体を、再び松田が引き留めた。
 今は、一刻を争うのではないのか。私は混乱した頭のまま、泣きそうになりながら松田を見返す。言葉が出てこなかった。喉の奥が、焼けそうなくらい熱いことだけが確かだ。

『……悪い。お前にその気がないなら、巻き込むつもりはなかった』

 彼は、少し太めの凛々しい眉の尻を下げて、申し訳なさそうに声を掠れさせた。
『俺は結局、もう死人だ。現実に干渉するべきじゃねえのも自分で分かってる……でも、目の前に助けられるものがあって、放っておけない』
「あの、何言って……」
『いくらでも怨み事は聞く』
 言うなり、彼は私の手をぐっと伸ばさせて、エレベーターのボタンを押した。どうやら先ほど工具箱を持った男が乗ったのだろう、すでに扉の向こうにあったらしい個室はすぐに可愛らしい音を鳴らす。
 
 明らかな異物が目に付いた。エレベーターの隅に、紙袋が置いてある。先ほどの松田の――自分の言葉が頭の中に反響していく。

「な、んで」

 どうして、開けたのだ。危ない、だって、あれが爆弾だったら、何の拍子で爆発するのか分からないのに。鼓膜を揺らす爆発音が、今でも耳の奥に反響していた。私がなんで、と振り向くと同時に、彼は私の背を押す。

『時限式の爆弾だが、さっき俺が見つけた時点で残り六分。もうすぐ五分か』
「……だ、だったら、もっと遠くに逃げないと」
『警察が来るまでの平均時間は七分。ここから一番近い交番でも、五分は掛かる。加えて、駆けつけた警官が必ずしも爆弾処理をできる奴とは限らねえ』

 私には、彼が何を言っているのか分からない。否、分かりたくない。
 彼はもう一度眉を下げて、『本当に、悪い』と、告げる。私はふるふると首を横に振った。嫌だ、今すぐこの場所から逃げたい。爆弾のそばにいるなんて御免だ。後ずさる私の体を追い詰めるように、彼は出口に立ちはだかった。

『ここで爆発したら、一角の電源が機能しなくなる。エレベーターと通路が塞がるから、非常電源もうまく作用しない。たくさんの人が死ぬ。爆風の被害だけじゃねえ』

 だから、頼む――。
 松田はそう頭を下げた。私は、松田のこちらを見据える顔を、軽く平手で打った。早く、退いて。私は帰るんだ、家に、両親の待つ場所に。それでも仁王立ちして退こうとしない男の姿。感情が昂る。今朝の一件もあって、私はひっくり返りそうになる声を押さえながら口を開いた。


「じゃあっ、じゃあ……そのために、自分が死んでも良いの!? 私は嫌だ、確かに人が死ぬのも嫌だけど、私は死にたくない……苦しみたくない……。そう思うのって、いけないこと? 誰かのために死ぬことが、そんなに偉いこと?」


 ぽろっと、滲んだ涙が下に落ちていく。一度落ちた涙はなかなか止めることができずに、しゃくり上げる声と共に流れ落ちていった。確かに、ヒーローって格好いい。他人のために自己犠牲を厭わず、笑いながら戦っている。
 でも、だったら私はヒーローじゃなくて良い。
 生きていたい。安全でいたい。穏やかでいたい。願うことの、何が――何がいけないんだ。

『お前、本当はあの男女のこと、守りたかったんだろ』

 傍らに爆弾があるとは思えないほど、静かで落ち着いた声色だった。男女――とは、世良のことだろうか。私は流れる涙をそのままに、息を呑んだ。涙が唇の上を辿って、塩辛い味が舌を刺激する。

『お前しか、いない』

 以前も、そう言っていた。それはそうだ、彼には私しかいない。彼には何も触れることができない。どれだけ人を救いたいと思っても、私という媒介がなければ現実に干渉することはできない。

「……前から思ってたけど、松田さんってちょっとナルシスト?」
『俺がナルシストだったら、もっとナルシストな奴がいるぜ』

 彼は軽く肩を竦めて、紙袋の中を覗いた。そして、その唇をニヤリとさせる。私も恐る恐る涙を拭いながら松田に続く。赤く光ったタイマーが、残り三分半。その意味くらい、さすがの私でも理解できる。
『この程度の爆弾、三分もありゃ十分だ。安心しろ、お前は死なない。俺が死なせねえ』
 ぺろっと舌なめずりをしてみせる男を、今はただ信じるしかない。そうっと、その紙袋を破る。ぴりぴりと端を切っていく――なぜか、指先は少しも震えていなかった。  


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Shhh...