07


 どくんどくんと、血が巡る。全身から血が引いたように手の先は冷たいのに、その音が私を生きていると思わせる。手に持っていた工具箱の中身を、傍らに並べた。松田が順に工具の名前を述べる。さすがに工具名くらいは知っていたけれど、それでも緊張で初めてのことを教わっているような気分だった。

『まずは蓋を外さないと話にならねえ。揺らさないように、ドライバーでネジ回せ』

 揺らさないように――と簡単に言ってのけるが、それが簡単にできたら苦労はしない。けれど、中は爆薬だ。揺らしてドカン、だなんて、絶対に嫌だ。私は固唾を飲み、四隅にあるネジにドライバーを差し込んだ。ふー、大きく息をつく。
 くる、くる、となるべく一周ずつネジを外した。四本目のネジを傍らに置くと、松田が軽く笑った。
『上手い。手先が器用なだけあんな』
 と、彼は軽く私の髪を撫でた。ぽん、と軽く置いただけだったが、私はその感触が落ち着いた。少し早かった鼓動が、緩やかになっていくのが分かる。不思議だ。
『蓋は急に開けるな。感光センサーで爆発するものもあるから、半分だけ横にズラすんだ』
 ゆっくり、言われた通り蓋をズラした。
 松田はじいと中を覗き込み、『大丈夫、全部退けろ』と言う。――本当に、と一瞬疑念が頭を過ぎる。いや、疑ってもしょうがない。赤いタイマーは、止まらないのだから。蓋を開けると、まるでドラマで見るような配線が、人間の血管のように中心へと張っていた。松田はマジマジとそれを眺めて、数十秒の時間だろうか、考え込むようにしていた。
 たかが数十秒、しかしそれは貴重な数十秒だった。
 その間、ゲームのメニュー画面みたいに周囲の時が止まるわけではない。声を掛けるべきではないと分かっていても、私はそわそわとその表情を伺った。

「ね、ねえ……もしかしてやっぱり無理?」
『――いや。悪い、ニッパー取ってくれ』

 彼は思い直したようにかぶりを振る。
 そして、絡まったコードの一つ一つを説明し始めた。そんなこと、私に説明することはないはずだ。私は慌てて「どれか言ってくれれば良い」と食い下がった。しかし、その意思の強い視線は、私のほうを真っすぐに見つめた。

『駄目だ。お前が混乱した時、パニックになった時、最後に決断を下すのはお前の頭だ。コードを切るのは俺じゃなく、高槻だろ』

 続けんぞ、と彼は淡々とコードが繋がる場所と、その部品の役割を、少しばかり早口に語った。彼だって分かっているのだ、時間が迫っていることを。私はそれを聞きながら、しかし目が液晶に表示される赤文字ばかり追ってしまう。
 時間は残り二分を切っている。
 ニッパーを持つ手が、少し震えた。急に自分に自信がなくなった。――最後に決断を下すのは、私の頭。その言葉が、怖かった。

 誰かの言いなりになるのは楽だ。周りに流されるのは心地が良い。
 何かがあれば、その人のせいにできる。自分は安全な場所にいることができる。
 幼いころは、幽霊の姿が見えることを特別だと思っていた。私にだけ見える影、私にだけ訪れた奇跡。しかし、今は、私の身にある異常だと思っている。皆が同じ毛皮を被った羊なのに、私だけが違う色をしている。それは、怖い。
 何かあったら、自分のせいだ。人はそれをよく見ている。先日まで仲間だと思っていた人たちが、急に指をさす。「アイツだ」と、私を見る。

 ゴミ箱に捨てられていた、おそろいのキーホルダー。
 みんなでお揃いのものがほしいねという友達に、夜中までかかって作ったもの。拙い造りだったけど、可愛いね、すごいという誉め言葉を真に受けて喜んだ。

 一歩踏み外しただけ。その一歩を、人の波は許してくれない。

 また、間違えたのではないか。間違えるのではないか。
 私を縛るのは命への恐怖より、ただひたすらそのことに対する臆病さだった。下唇を噛む。今なら、引き返せば私を責める人なんていない。今なら、今なら――。

『高槻』

 ただ、その意思の強い、わがままそうな目つきだけが、私を見ている。私の怯えを、間違いを、見ている。彼は私の表情を一瞥すると、するりと背後に回った。背中に、体温を感じる。冷たいけれど、どくどくと打つ鼓動はないけれど、彼は確かにそこにいた。
 私の背中越しに伸びた手が、震えだした手を掴んだ。固い、冷たい、生きてはいない感触。
 ――でも、震えが止まる。
 本当に、不思議だ。彼が触れると、呼ぶと、言葉にはしていないのに「大丈夫」と念を押されている気分だった。横暴で不遜で、出会ってからまだ一週間しか経っていない幽霊なのに。
 
『大丈夫だから、焦るな。俺がいる』

 ああ、そうか。彼には自信がある。
 自分を信じるとはよく書いたものだ。松田は、会った時からそうだった。自分の使命ややるべきことを、明確に持っていた。今も、そうだ。
 私にはないものだ。だから、落ち着くのだ。彼の自信が、触れた場所から私にも伝わっているのだ。

『まずはこの線だ、パネルの電源に繋がってる。見たところ妙なトラップはついてねえ……単純な時限式だな』

 指をさされた線を、ぐっと力を込めて断ち切る。
 ばちん、と小気味の良い音をたてて、線が二つに分かれた。その後も、彼の指示に従って一つ、一つと線を切っていく。彼の指示が的確なのか、その言葉通り造りが単純なのか、一度切ってしまえば案外スムーズに配線を切ることができた。
 私がその作業をしている間、彼はずっと手を重ねていた。思いのほか落ち着いているのは、そのおかげかもしれない。

『っし……最後だ。この赤い導線だな』
「……松田さん」
『余計なおしゃべりは後にしな。油断と焦り――どんな厄介なトラップより性質が悪い』
「最後まで……手、握っててもらっても良い?」

 ちらりと背後を振り向くと、成人男性にしては大きな目つきがパチンと瞬いた。そして、ふっとその目が細められる。薄い唇を片側に引っ張るように、ニヒルに、――しかし今まで見た中で一番柔らかく松田は笑った。

『トーゼン』

 その言葉に鼓動を落ち着けて、私は最後の赤い導線を切る。断ち切るその瞬間まで、松田は私の手の甲の上を支えるように触れていた。私の手よりも、ずっと大きくて、少しだけゴツゴツとした手だった。





「はい、すみませんでした……」

 
 私は事情聴取を受けると同時に、駆け付けた刑事たちに小一時間の説教を受けた。
 爆弾の解除はそもそも専門家でも防爆スーツを着て行ったり、今では導線を切るのではなく液体窒素で無力化したりと、神経を使うものであること。一歩間違えば自分だけでなく病院の人たちも危なかったということ。
 耳にタコができるくらい、繰り返し言われたけれど、全て正論だ。返す言葉もないので、私はひたすらに頷いていた。
「まったく、どこでこんな知識を……」
 目の前で額を押さえる、少しお腹の出た中年の警察官がため息をついた。
 ――まさか本当のことを言うわけにもいかないので、私は「ちょっとテレビで」と言い訳した。そうしたら、また「ちょっとテレビで見ただけでやるな」という説教に繋がってしまい、そこから三十分、ドラマと現実の違いを語られた。
 
「百花!」

 ばん、と部屋の扉が開き、母親が私に駆け寄る。抱き着かれると、母の温かな体温が伝わった。「心配したのよ」と何度も何度も私の頬を撫でた。松田とは違う、とくとくと、しっかり彼女の鼓動が伝わる。

 その後、書類に印を押したり、証拠品の確認をしたりとしたことに、保護者の欄に母がサインを入れると、ようやくのこと帰って良しと許可が下りる。
 私は母と共に彼らに深く頭を下げ、踵を返そうとした。――その時だ。恐らく一番立場が上なのだろう、中年の警察官が私を呼び止めた。

「は、はい……?」

 まさか、母の前でも説教が続くのだろうか。確かに無謀なことをしたと、自分でも思うけれど。振り向いた私と視線を合わせて、彼は一度咳ばらいをした。
「勿論、今後は警察に任せてもらいたいが――。しかし、あの場所には、電気が通らなければ命を失う人がいる。自分の足では逃げられない人がいる。君の言う通り、爆発は警察官の到着や避難には間に合わなかっただろう。多少なり犠牲者が出ることも避けれなかったはずだ」
 そして、彼は絵に描いたような敬礼をした。曲がっていた腰を伸ばし、指先まで真っすぐにして額に当てる。


「高槻さん、君の大きな勇気と知恵、そして勇敢なる行動に感謝する」


 彼の後ろに立っていた数人の刑事たちも、一寸の狂いもなく同じように敬礼をした。
 ――似ていた。松田の視線によく似た、意思の強い瞳たちが、キラリと輝くのが分かった。目の奥が、喉が、焼けるように熱い。どうしてかは、分からないけれど、ただ自然と涙の膜が浮かぶのが分かった。

 私はこの感情をどうしたら良いか分からなくて、深く頭を下げる。「ありがとうございます」、と、私は震える声で伝えた。
 

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Shhh...