01

 この世には、努力でかなわないものがある。

 幼いころから、努力することは苦ではなかった。
 物事とは、やればやるだけ結果がついてくる――幼少期のころは、間違いなくそうだったと思う。勉強をすればするだけテストの結果は伴ってきたし、先生に教わったことを従順に聞いていれば優等生だった。毎日のように練習すれば、スポーツだって。高校を過ぎた頃にはすっかり頭だけでっかちな人間になっていた。それを、嫌だと思ったことはない。

 だって、優秀な成績を残せば、何の部門であれ誰かが認めてくれる。教師であったり、クラスメイトであったり、仕事ばかりで顔を見せない両親であったり。それを名誉だと思っていた。――わりかし、最近まで。

 努力に見合わないものがあると、気づいたのは二十歳を過ぎた頃だ。
 そう、今まさに、この瞬間である。私は目の前にいる男を、泣きそうになるのを堪えながら睨みつけた。――信じられない。思ったことがそのまま口を突いて出る。

「何で……っ、私、何かした?」
「ああ、じゃあ言ってやるよ! 可愛げがないんだよ、お前。いつも口うるさいし、何かしたらしてあげたアピールするし……そういうのに、疲れたんだよ」

 すべての言葉が、鋭利なアイスピックのように、私の心をガツガツと砕きに掛かる。彼のスマートフォンに、他の女の履歴を見つけてしまったのは今朝のことだった。ドラマや漫画の中ではよくある風景。『昨日は楽しかったよ』なんて、テンプレートなショートメッセージ。まさか、自分の現実に起きるだなんて思わなかったけれど。

 優しく、明るい男だった。
 高校の時のクラスメイトで、大学を卒業後、共通の友人の紹介で再会した。いつもクラスの中心にいるような、おちゃらけた性格だったのを覚えている。高校の時は一度も会話を交わしたことがなかったから、二人で話してみると、案外可愛い笑顔をしていることに気づいた。それが、好きだった。

 多分、私が先に好きになった。モジモジと距離を測りかねているところで、彼のほうから「俺のこと好き?」と確信めいた言葉を受けたのだ。私は恥ずかしかったけれど、小さく頷いた。
 今までも付き合ったことはあったが、互いに大人の恋愛だ。今までの学生での恋人とは、また少し違った。もしかしたら結婚するのかも――なんて、将来を楽しみに考えたり。飲み会に彼を迎えに行って、職場の人たちに頭を下げたり。
 彼に愛されたくて、料理や家事、経理の勉強も始めた。努力すれば、実力は伴うもの――私の考えだったからだ。仕事の合間を縫って、私なりに頑張ったつもりだった。

 ぽろ、と堪えきれなかった涙が零れた。
 今まで手を繋いで歩いた彼との帰り道だとか、チューハイを買って家の中で映画を観ていた――その肩に触れた体温だとか。いろいろなものが、虚しく思えた。私が泣くと、彼は面倒そうに後頭部を掻く。

「ったく――こんなんだったら、狙わなきゃ良かったな」

 それは、私が今一番聞きたくなかったこと。
 せめて、良い思い出で終われたらどんなに良かったか。楽しかったねと言い合えたなら、良かったのに。砕かれた心が、バリンバリンと小さくなって散らばっていくのが分かった。指先が震える。唇も、肩も。言い返すことすらできなかった。

 私は、目に力を入れる。涙を零すな。下唇をキュっと噛んで、そして、大きく平手を振り翳す。それがせめてもの――私の意思表示だった。


 この世には、努力ではどうにもならないものがある。
 人に愛されること、人を惹きつけること――人の愛を、留めておくこと。どれも、どうしてこんなにもままならないのか。自分なりに頑張ったことを、急にひっくり返したように無に帰してくるのか。

 悲しく、寂しく、そして虚しい。
 彼の頬を打った自分の平手が、ジンジンと痛みを広げていくのが分かった。ぐずっと鼻を啜りながら、彼の家からの帰路を、いつもよりも早い歩調で歩く。時折すれ違う人が、驚いたような顔をしてこちらを振り向くのが、いたたまれなかった。
 拭っても拭っても零れてくる涙は、もう自分の力ではどうしようもなかった。先ほど一度堪えたせいか、堰を切ったようにボロボロと零れてくる。

 ぽつん、と頬を雫が打った。
 
 涙とは異なる、冷たい雫だ。そういえば、今日は午後から雨って天気予報で言っていたな。だから、洗濯物を仕舞ってあげようと思っていたのだ。それを思い出して、また心が冷たくなった。

 彼が好きだと言って染めた、自分の趣味じゃない明るめのブラウン。その毛先が、雨の水を含んで、時折雫を落としていく。ハァ、と息をつくと、白い煙のように染まっていった。鞄の中には折り畳み傘が入っていたけれど、開く気にもなれない。
 ――歩みが次第にのろくなって、滲んだ視界を拭おうとしたとき、近くでパシンと乾いた音がした。

 あまりに聞き覚えのあった音だったので、私は反射的に振り返る。
 銀の糸を垂らしたカーテンたちのなかで、背格好の良い男女が二人、何やら言い合いをしているのが見えた。まるで、自分たちの過去をそのまま映しているみたいだ。
 男が何やら引き留めようとした腕を、女が振りほどく。女は憤ったような、やるせないような風で踵を返していった。
 男は、暫く肩を落として項垂れた後、どうやら諦めたらしくこちらをクルリと振り向く。――視線が合った、ような気がする。正直なところ雨が降っていてよく見えなかったけれど、そんな気がした。
 まるで野次馬のようで(――まあ、実際そうか)気まずくて、私はすぐに視線を外した。ぱちゃん、と水の音がする。ぱちゃん、もう一度。どうやら近づいているような音から逃れるように、私は彼とは反対方向に向かって歩き出そうとした。

「待って」

 腕が捕まれる。それほど、強くはない力だった。明らかに男のものだと分かる指先は、ひんやりとしている。
 ――やばい、さすがに見すぎたかな。
 どうやら女と喧嘩をしている風だったし、妙な絡まれ方をしなければ良いのだけど。私は肩を縮こまらせた。思ったよりもずっとゆったりとした口調が、アスファルトや窓ガラスに雨が打ち付けていく音の中にしみ込んでいく。

「傘、持ってないの? これ使いな」

 押し付けるように、無骨な傘の持ち手が渡された。
 ――なんというか、ずいぶんとお人好しな男だと思った。
 今さっきまで口喧嘩をしていたところだろうに、少し離れたところにいる私が傘を持っていないことが、そんなにも気になったのだろうか。それとも、次の女に乗り換えようと思っただけなのか。
 私は少しだけ不安げに、押し付けてきた彼の顔を見上げた。男にしては長い髪が顔に掛かっていて、表情はうまく読み取れない。

「あ、でもお兄さんの傘……」
「あー……。大丈夫、そこのコンビニで買ってくっから」
「ち、違うんです。私、傘持ってて……」

 申し訳なくなって、私はようやく鞄から折り畳み傘を取り出した。それを開いて見せると、彼は少し驚いたように間を置く。そして、長く表情を隠していた髪を、私の手を離し、ぐいっと後ろに掻き上げた。隠れていた表情が覗く。

「本当だ」

 どうやら、髪が邪魔で風景がよく見えていなかったのだろう。ふ、と厚い唇が笑う。
 クリアになった視界で私の頭上を見上げる男。面長な輪郭と、少し大きめな口。大きく垂れた目つきに、太く吊り上がった眉。ぱっと見たところは大学生らしくもあるが、その背丈の高さとゆったりとした低い声が、彼の年齢をぐんと高く見せた。
 雨の似合う男だった。
 第一印象は、それだ。彼のビニール傘の背後に見える雨たちも、灰色の濁った雲も、雨だまりに反射する街灯も、まるで彼を演出するための一部に見える。映画のスクリーンを、切り取ったみたいだ。

 そして何より目を引いたのは――その頬にある、赤い印だった。

 私の手のひらも、彼の頬と合わせて、再び痛みをぶり返したように思う。ジンジン、ジンジンと――痺れる痛みが、尚更冬の空気を冷たくさせた。