02



 濡れた頭をタオルでわしわしと拭きながら、目の前に座る男を、私はぼんやりとした頭で眺めた。彼氏が置いて行ったスウェットは、彼には少し丈が足りないようだ。

 あの後、びたびたになった服を心配して留まっていた彼の傘が、隣を通り去ったトラックの風圧でひっくり返った。大きなタイヤの跳ねた水が、その長い髪を全て真下に下ろすように降りかかり、さすがに放ってはおけなかったのだ。そもそも、私が傘を持っていたのに差さずにチンタラしていたのが悪かったし――。
 男は私が一人暮らしだということを知ると、慌てたように首を横に振った。今思えば、罪悪感に駆られて少し強引な誘い方をしてしまったかも。ああだこうだと言っているうちに、雨に冷えた体が小さく「クシュン」とくしゃみを零し、男はその声を聞くと、渋々と言った風に私の手を引いた。

「ごめん。着替えまで借りちゃって」

 シャワーを浴びて、ドライヤーで乾いた髪は、少しだけ毛先をぽさっと跳ねさせている。長髪なのを忘れていた、ヘアオイルでも貸してあげれば良かっただろうか。私は冷蔵庫の中にあった昨夜の残りの煮物を小鉢に盛り付けながら、ゆるく首を横に振った。

「いえ、私も急にすみません……。知らない女の部屋なんて、良い気しないですよね」
「いやいや! 俺がっていうか、お姉さんが危ないでしょ。あんまり男にそういうことしちゃダメ……全員狼だと思って行動しないと」
「あはは。でも、お兄さん悪い人に見えなかったし――」
「世の悪人は、悪人に見えないモンよ」

 ――それ、自分で言うのか。私は少し笑いを零して、インスタントの味噌汁と白米を盛った茶碗をダイニングテーブルに置く。男はぱちくりと、目を瞬く。クセなのだろうか、長い指先がその薄っぺらく広い耳たぶをフニフニと弄んでいるのが気になった。
「あー……手料理とか、重いですか。一応味は悪くないかな〜なんて」
 料理教室にも通ったし、独学で料理本も読み漁ったから。とは言わなかったけれど、料理をするのは嫌いじゃなかった。二人分の夕飯を用意しておいて何だが、確かに初対面の人間にすることではなかったような。僅かな後悔を感じながら、チラリと彼のほうを見遣ると、相変わらず垂れた目つきはパチパチと瞬いていた。
 
 気まずい時間が流れること十秒ほど、その沈黙を切り裂いたのは、大きなグウ、という腹の虫の声。

 こちらを見て瞬いていた彼の表情が、湯照りとは違う、ぽっと血色づくような顔色に染まった。苦笑いしながら、「でも、遅くなったし」という男を見て、私はついついぷっと口元を突く笑い声を押さえることができなかった。
「作りすぎちゃったので、食べていきますか」
 と、やんわりと尋ねれば、彼は少しばかり悩んだ後、大きな体に見合わないほど小さく頷いて見せた。




 男の名前は、萩原研二と言った。
 私の最寄りの駅から一駅乗り継いだ場所に住む大学生らしい。学生の男にしては大人っぽく、落ち着いた喋り方をする。電話口で聞いたら、社会人といわれても何ら不自然ではないくらいだった。その事を少し触れたら、萩原は苦笑いして「よく言われる」と笑った。

 煮物も、和え物も、インスタントの味噌汁も――萩原が美味い美味いと言いながら箸で突くから、食事をあまり進めていないこちらまでお腹いっぱいになってしまう。料理、練習しておいて良かったな。ホットのほうじ茶を気に入りのマグカップに注いで、縁に上唇を乗せた。

 綻んだ頬は、相変わらず赤く手のひらの大きさに染まっている。
 彼女――だろうか。だとしたら、尚更悪いことをした。よく考えれば言い合いをしていた女性と男女の関係であることなど明白なのだから、考えが足りなかった。喉元を通っていく温かさを感じながら、彼の頬を見つめていた。チラリ、こっちを見上げた目つきと視線が合う。

「これね、フラれちゃったのさ」

 萩原は、パクリと箸で器用に切った里芋を口に運び、大したことでもないように告げた。長い指は、箸を持つ仕草さえ、どこか絵になる。彼はくるっと鉛筆を回すように箸の向きを変えた。行儀が悪いなあと思った。

「……私も」
「え?」
「私も、フラれちゃってさ……。今日、君みたいに思い切り手形残してきたところ」
「ふ、嘘。お姉さんが? すごいなあ」

 私の言葉を聞くと、大きな口がニヤっと笑った。そして愛嬌のある笑みをこちらに向けて、「じゃあお揃いかあ」と言う。
 彼は、私とは対照的な人間だと出会った時から思っていた。詳しくは知らないが、纏う雰囲気が華やかだ。ゆったりとした話し口が、彼の精神的な余裕を思わせる。しかし、彼から一言飛び出たフラれたという言葉は、今の私に親近感を沸かせた。
「ちなみに、どうして……とか聞いても良い?」
「お、突っ込むねえ。俺が寂しい思いさせちゃったみたい」
 その広い肩が、軽く竦められる。
 ぱくぱくと、変わらずに食事を続ける様子に、私は尊敬と関心を寄せた。萩原が、フラれたことの理由を自分のせいだと告げたのに、だ。確かに別れる決定的な理由はそれぞれあるだろうが、普通、こういった理由を尋ねられたら、「アイツが――」という出だしにはならないだろうか。
 私は、そうだった。
 アイツが浮気をしたから。アイツが、応えてくれなかったから。
 私の努力を無駄にしたことに、腹を立てていた。学生だというのに、よく出来た人だ。それを聞いてしまっては、私から愚痴を挟むことなどもうできなくて、私は「そうなんだ」と相槌を打つだけだった。


「……」

 確かに、彼の最後の言葉をしっかりと捉えていなかったかも。
 押しつけがましかったのかな。私が、悪かったのかな。思い出したら少しだけ涙が滲んだ。私は慌てて彼に見えないよう、鼻をかむフリをして後ろを向いた。――危ない。さすがに、呼び込んだ上に目の前でさめざめと泣くなんて、そんな女にはなりたくない。

 萩原は、何も言わなかった。
 かちゃかちゃと食器が鳴る音だけが響いて、少しすると「ごちそうさま」と彼の声がする。私は重くまばたきをして、涙を乾かしてからそそくさと食器を片付ける。乾燥機が止まる音がした。


 彼はもとの服装に着替えると、髪の毛を軽く一つに結び、私に「そろそろお暇するかな」と告げる。私は彼からスウェットを受け取り、頷いた。呆れられただろうか。妙なタイミングで黙りこくってしまったし。あれでは詮索だけした、感じの悪い雰囲気になったかもしれない。

 暖房の近くに干していたジャケットは、雨に濡れた所為か少しだけ触り心地が悪かった。萩原はごわついたジャケットを肩に掛けて、それからジャケットのポケットをしばし弄る。「あ、あった」――独り言のように、ぽつりと呟く。新聞で水を吸った靴に踵を入れて、彼は私を大きな手で小さく手招いた。

 ぎゅっと、その大きな手は私の手のひらを握る。シャワーを浴びて暫く経っているというのに、やけに温かな体温が、じわじわとその場所から私の体を蝕んだ。
「えっ」
 急なことだったので、体が固まった。零れた声は、意識していたわけじゃあないが上ずっていた。萩原は握った手の力を強くして、握手をするように軽く振った。

「泣きたいときに、邪魔してごめんね」

 太い眉が、申し訳なさそうに八の字を描く。ワンテンポ遅れて、手のひらに彼の体温と、もう一つ触れる感覚があることに気づいた。かさり、何かの包装のような――無機質で、薄っぺらいような。

「元気が出るおまじないってヤツ」

 なんてな、彼は自分で言った台詞を恥じるように笑う。温かい手が離れて、私の手には無機質な感覚だけが残っていた。視線を落とすと、黄色と白の包装が手の上にコロンと転がっている。

 私がそれをジっと見つめているうちに、彼は「本当にありがとう」と頭を下げ、ビニール傘を持って玄関を出て行った。

 夢の中で唯一残されたようなたった一つの塊を、摘まんで持ち上げる。包装の裏には、桜と共に赤い文字が『レモン味』と並んでいた。『捲ってね』、と書かれた包装の繋ぎ目を捲ると、可愛らしいキャンディーを模したキャラクターが『負けるな!』と叫んでいる。最近話題になっている、メッセージ付きのキャンディーだ。

「……ふっ、何それ」

 私は、笑っていた。同時に、零れた涙を拭えないでいた。
 口に放った飴玉は、思いのほか酸っぱい。その酸味に、尚更涙腺が刺激された。気づいていたのだ――萩原は、私が、泣きそうだったことに。
『泣きたいのに、邪魔してごめんね』
 本当に、お人好しというか――。笑いながら、泣きながら、私は萩原が着ていたスウェットをゴミ袋に突っ込んだ。今まで通ったチケットの半券も、一緒に買ったクッションも、彼の香りのついたものは全部。

 部屋にあったものが三分の一ほどなくなったとき、飴玉が小さく口の中で砕けた。私は部屋を見回して、少しだけホっとしたような気分になった。