03


「え、みずき別れたの!? いつ!」
「ちょっと、声大きい」

 食堂で声を上げた同僚を、人差し指を立てて宥める。周囲の人間がチラチラとこちらに視線を向けたのに、軽く頭を下げて謝罪した。ショートヘアーを耳に掛けた同僚は、入社時からの同期でもある。明るく、やや雑把だが、人から好かれる魅力的な女性だ。よく表情の変わる、リッププランパーの塗られた大き目な口を、周囲から隠すように手のひらを立てた。

「全然気づかなかった。だって、あんなにゾッコンだったのに全然落ち込んでないし」
「ゾッコンって……やっぱそう見えてた?」
「趣味じゃないことまで全部一からマニュアル買ってたでしょ。誰が付き合ったと思ってんの」

 それを突っ込まれると、肩身が狭い。「それはありがとう」、彼女を見上げる風にして返すと、拗ねたように尖っていた口が柔く微笑んだ。
「まあ、そんな気にしてないなら良かった……。最初から思ってたのよ、あんなガキみたいなタイプ、みずきには似合わないって」
「ガキって……」
 あはは、と空笑いを漏らす。そんな風に思われていたとは知らなかった。確かに、同年代と比べて少しばかり感情的だったり、強請り上手なところはあったが。付き合っている時はそんな所も可愛いなんて思ったものだ。
 私はゴクリとカップに注がれた水を飲み干し、腕時計を見る。前までつけていたものは、彼氏から貰ったものだったので(ピンクゴールドの、有名ブランドのものだった。実を言うと、別に趣味じゃない――)、自分で心機一転と買いなおしたものだ。シンプルなシルバーの腕時計。同じ色の分針を一瞥し、私は席を立つ。

「始業まで十五分。そろそろ行こう」
「相変わらず真面目ね〜……」
「真面目っていうか、当然でしょ。そのぶんお給料は貰うんだから」
「はいはい。掛けた時間は人を裏切らない、ね」

 同期がふと零した、いつもの私の口癖がチクリと胸を刺した。
 そう、それは私がいつも口にする台詞。私の、生まれた時からの教訓だった。人を裏切らない――はずだったのだけど。進学も、就職も、趣味も、何もかもそうだったのに。胸を焦がすような愛情だけは、時間と共には返ってこなかった。
 ああ、ムシャクシャする――。
 私は苛立つ気持ちを誤魔化すようにして、デスクへと踵を返した。




 会社から駅までの大通りは、決して治安が良いとは言えない。
 それでも、暗がりで人気がないよりは大分良いが、退勤時間には近郊の大学生や仕事終わりのサラリーマンがガヤガヤと人混みを作る。中には、変な酔い方をしていたり、怪しいキャッチなんかも歩いている。
 私は彼らの隙間を縫うようにして歩いた。そういえば、萩原も彼らと同じ学校なのだろうか。このあたりはキャンパスの密集地で、大学が近くに三校ほと存在する。まあ、いくら華やかな男でも、この人混みに紛れていちゃあ分からないだろうが。
 そんなことを思いながら、駅のホームで電車を待っていた。冷えた気温のせいで、肩が凝り固まっている。今日は暖かいものでも食べたいなあ、と夕飯の献立に思いを馳せていた。

 コンコン、と後ろからノックの音のようなものが聞こえる。

 イヤホンをつけていたから、最初は気のせいかと思った。
 試しに片耳を外して数秒すると、もう一度、背後からコンコン、と。
 気になって背後を振り向くと、どうやら凭れていたのは喫煙ルームの壁で、ノックしたのはガラスの向こうの人だったらしい。ぱっと振り向いた時には胸元あたりしか見えず、視線を持ち上げると、愛嬌を持った笑顔がニコリと浮かんだ。煙草を挟んだ指が、ひらりとこちらに向かって揺れる。

 私は驚いて、つい「あっ」と声を上げた。
 その声に驚いたように、隣で待っていた客が怪訝そうにこちらを見る。私は小さく口を押さえ、軽く会釈をしたら、向こう側にいた萩原もにこやかに会釈をした。

 顔を合わせたのに、そのまま帰るのもなあ――と思っていると、まだ長かった煙草を一本灰皿に押し付けて、彼の方からこちらに歩み寄って来た。

「すごい、本当に大学近くだったんだね」
「まあね。お姉さんは、今お仕事終わり?」
「そう。買い物して帰ろうかな、って思ってたところ」
「良いな。買い物ついていっても良い?」

 モッズコートを羽織った体を竦めるようにして、萩原は首を傾ぐ。私は二つ返事で頷いた。家まで知られていたわけだし、何より彼の最寄り駅ならば、いつも行くスーパーでも軽い寄り道程度だろう。断る理由がなかった。
「よっしゃ」
 ――と、萩原は歯を見せて笑う。大人びた背格好からしたら、少し子どもっぽい笑顔だった。その笑顔を見ると、少しだけ頬が緩む。

「今までは彼女が作ってくれてたんでしょ」
「あはは、おっしゃる通り。暫くは外食してたんだけど、ホラ、お金がね……」
「大学生だもん、そりゃそうだよ」

 とほほ、と演技じみてポケットを叩く仕草に、私は笑った。確か大学四年、と言っていたから、バイト生活には慣れているだろうが、このあたりは家賃も安くない。体格も大きいし、食べ盛りの青年には毎日外食だと経済的にキツいだろう。
「それに、お姉さんの顔見たらご飯食べたくなっちまって」
「躾されたての犬?」
「そうかもね。美味しかったし」
 ――そう言われて、悪い気はしなかった。
 にしても、今まで自炊する機会がなかったということは、彼女とは長かったのだろうか。それか、幾人かの彼女が休む間もなくできたのか。そこまで考えて、私は思考を端へと追いやった。少し、無粋だったかなと思ったからだ。

 駅につくと、私は迷いなくスーパーへと彼を案内する。このあたりのスーパーの中でも価格が安く、品ぞろえも良い店で、近所にある店の中でもよく愛用していた。特に私の退勤時間――今ちょうど、このくらいの時間になると、賞味期限の近いものが特売で出されるのが魅力的だ。
「家に道具はある?」
「一応。あんまり使ってないけどなあ」
「一人分つくるなら、パスタ系はオススメかな。買っとけば味もたくさん選べるし」
 私はうどんにしようかなあ、と麺が売られる棚へ向かうと、萩原は適当に五つほどパスタを籠に放り込んだ。私はぎょっとして、うーん、まあ悪くなるものでもないし――と思い首を掻く。
 しかし、お節介かもしれないが、一応口添えだけはしておこう。口角を持ち上げたままの表情を、ちらりと覗き見た。
「念のため言っとくけど、それ一袋で三人前だからね」
「えっ」
 萩原は、きょとんとしてこちらを振り向いた。
 もしかしたら彼くらいの年頃の男ならば、一袋で二食分くらいかもしれないが。確かに悪くなるものじゃないけど、金欠だといっているのに試しに買うには少し量が多い。
 その薄っぺらな耳をふに、と自身の指で擦りながら、彼は恥ずかしそうに「もうちょい早く教えて」と言った。


 一通り買い物を終えて、萩原はついでに家まで送ると私のレジ袋を抱えてくれた。別にいつものことなのだから、気にしなくても。遠慮はしたけれど、「付き合ってくれたお礼だと思って」と言われたので、大人しく言葉に甘えておいた。
 彼の歩き方は、その口調と伴うようにゆったりとしている。日の落ちた住宅街に、ぽつぽつと灯る街灯。男にしては長い髪が、冷えた風にふわっと靡く。口元から細く煙のような吐息が漏れて、さっき喫煙ルームに居たっけ、と思い返した。
「煙草吸うんだね」
「そそ。珍しくないでしょ」
「なんか意外だったから……」
「えぇ、それは初めて言われたな」
 いつも、ぽいねって言われるよ――萩原は声を上げて笑った。そうだろうか、出会った時から少しずつお人好しを感じさせる男だったから、苛立たし気な喫煙者の群れに紛れているのが似合わないと思い込んでいた。
「煙草って美味しいの」
「吸ったことない?」
「うん。家族も友達も吸わなかったし……」
「へえ。二日酔いのときに吸ってみな」
「なんで? いつもより美味しい?」
 萩原の方へ視線を向けて尋ねると、彼もこちらを視線だけで見下げた。それから、悪戯っぽく口角を持ち上げて「最悪だよ」と声を潜めた。なんだそれ、声を上げて笑ってしまった。

 マンションの前に着くと、萩原から荷物を受け取る。
 本当は食べていけばいいのに、とも思ったけれど、さすがに彼氏でもない男を部屋に連れていくのはまずいか。この間はやむを得ない事情があっただけだし――。お礼だけ言って踵を返そうとしたら、「お姉さん」、と呼び止める声がした。呼び止める、というよりは、話しかけたのか。
 
「……おやすみ。気を付けて」

 にこっと愛嬌良く笑った表情に、私も「おやすみなさい」と返した。