04


「――あ」

 自分で作ったかけうどんに、総菜で買った天ぷらをトッピングしながら、私はぽつ、と吐き出した。ちょうど、萩原のことを考えていた。今日買って帰った材料はそれほど大したものじゃないが、レシピの一つでも教えてあげれば良かったかな――とか。本当に他愛ないことだったが、考えているうちに気づいた。彼に名乗っていなかったのだ。
 萩原があまりに自然に「お姉さん」と呼んでくるから、気づかなかったけれど。あの日はいつもよりぼんやりとしていたから――にしても、相手に名乗らせておいて名前の一つも言い出さないなんて、我ながら図々しい奴である。

 前の彼と別れて――もう二週間になる。言い方を変えれば、萩原と出会って、まだ二週間だ。この短期間で再会したのだから、案外また会う機会があるかもしれない。今度会ったら、改めて名前を伝えようと思った。



 スケジュールは、しっかりと立てないと気が済まない方だ。その通りに行くかどうかは別として、頭の中で見通しを持って行動したい。そうじゃないと、心が少し気持ち悪い。今日は友人が好きな映画の公開日で付き合ってほしいというので、半休を取っていた。仕事から帰ったら、洗濯ものを回して化粧と着替えを済ませ、終わったころに洗濯ものを取り込む。遠くからわざわざこちらに出向いてくれた友人には、軽い手土産を買っていきたいので、少し早めに家を出ようと思っていた。

 
 予定が狂ったのは、職場でトラブルが起こったからだ。
 私の職場はいわゆる大手企業の子請け会社で、上のミスした発注で商品開発を進めてしまっていたこちらにも被害が降り注いできたわけだ。朝からバタバタとしたオフィス。既にサンプルを渡してしまった諸方面へ頭を下げまくった。
 その時点で予定よりも一時間押していた。ある程度のオフィスメイクはしていたので、最悪、化粧はこのままでも良いか――。ぐったりと皆がデスクで突っ伏す中、申し訳なく思いながらも職場を後にした。

 そして、洗濯物を放り込んだ後――洗濯機が、嫌な音を立て始めた。昨日までは普通に使えていたようが気がするのだが、音が出ないと有名なメーカーのものなのに、まるで大昔の品質のものを使っているみたいだ。ガコン、ガコンと音が響き始め、私は慌てて洗濯機を止めた。中にある洗濯物はビチョビチョのままだ。
 いったん洗濯物を取り出し、ひとまず皺ができないよう伸ばして――としているうちに、友人から連絡が来た。

 私はパンツスタイルだったものを、ハンガーに掛かった適当なフレアスカートに履き替え、細めのベルトと鞄を引っ掴んで家を出た。待ち合わせの時間まで、あと少ししかない。パンプスで少しばかり踵が擦れたが、どうにかタクシーを捕まえた。
 お金が勿体ないのでいつもは使わないけれど、待ち合わせ場所を伝えてから、大きくため息をつく。こんな冬の入り口に、汗を滲ませているのなんて私くらいじゃないだろうか。友人へメッセージを返してから、私はメールボックスを漁った。
 ――確か、洗濯機を買った時の保証メールがあったような……。
 ボックスに保存してある過去のメールを遡り、購入した量販店のメールを開く。良かった。まだ保証年数内だ。量販店に連絡をして、私は友人と映画を楽しむことにした。



「う、浮気!? 信じられない……」
「本番はしてないって言うんだけどね」
「したに決まってるよ。ていうか、部屋に連れ込んだ時点でアウトでしょ」

 映画の後、オフィス用の腕時計をそのままにしていたことをすっかり忘れていて、友人に言及されながらカフェに入った。映画を観ていた時は、目当ての俳優にすっかりと目をハートにしていたというのに、切り替えが早いものだ。
『部屋に連れ込んだ時点でアウトでしょ』
 という友人の言葉に、正直ギクリとしてしまった。いや、あれは別れたあとだったわけだし――。カプチーノに口をつけながら、少し気まずい思いをしていると、友人はジっとこちらを見つめてきた。
 中学、高校、大学と同じ道を歩んできた友人だ。今は就職の関係で、東都を離れて一人暮らしをしているが、私の誰よりの理解者だと思う。一言で言えば、女性らしい人。ふわふわとゆるく巻かれた髪の毛が、デコルテの露出されたワンピースに掛かっている。アイドルや俳優へのミーハー心があるせいか、理想も高く、案外男に対しては辛口だ。

 彼女は嘘のつけない私の表情をこれでもかというほど凝視して、小さな声で「まさか」と言った。独り言だったかもしれないが、私の耳にまで届いた。

「え、ま、まさか……みずきが浮気……!?」
「ち、違う、違う!」
「あんなに真面目だったのに……。浮気のうの字も知らないような子だったんです……」
「違うってば。あのね――」

 このままだとあらぬワイドショーが始まってしまう。私は萩原のことを彼女に話すことにした。近くを通った黒髪の店員が、フっと笑いを零したのが私にまで聞こえて、恥ずかしい。

 彼女は一通り話を聞き終えると、「なるほど」と何度か頷いた。その表情に、先ほどとは異なるキラキラとしたものが浮かんでいるのが目に見えて分かる。
「じゃあ、その人に乗り換えれば良いわけか……」
「二回会っただけの大学生なんだけど」
「えー、でも気もないのに買い物についてきたいなんて言う? 彼女と別れてすぐそうなんて、ちょっと軽そうで心配だけど。一緒の部屋にいても手は出してこなかったみたいだし、良い人じゃない」
 良い人――それは確かだ。だけども、これは恋愛感情というのだろうか。彼を見ている時は、年下ということもあってか、どこか放っておけない心が働くというか。あの人の好さそうなニコニコ〜、という効果音のつきそうな笑顔に保護欲が働くというか。
 うーん、と悩んだ挙句、話に夢中で冷めてしまったカップの中身を飲み干した。

「まあ、暫く彼氏は良いかな……」
「そう? じゃ、クリスマスはこっち遊びに来てあげようかな〜」
「わ、やった。高いケーキ予約しとこ」

 手を叩いて喜ぶと、友人も「そうこなくちゃ」と笑った。
 カフェの会計を担当してくれたのは、先ほど私たちの背後で笑いを堪えた黒髪の青年だ。カフェのロゴが印刷された、コーヒーブラウンのエプロンがよく似合う、爽やかな男だった。彼はどこか既視感のある――正直、私と似ていた――吊った目の形をほんのり柔らかく細めて、「さっきはすみません」と小さく笑った。

「いえ、私たちも大きな声で話しちゃって……。迷惑をかけてませんか」
「大丈夫ですよ。あ、良かったらポイントカード、貰ってください」
 断る間もなく、彼はポケットに付けたボールペンをノックし、淡いピスタチオグリーンのカードに今日の日付と、葉っぱマークのスタンプを押した。

「最後まで溜まると、コーヒー一杯。雨の日はポイント二倍です」
「へえ……知らなかった。ありがとうございます」
「いえ、またお待ちしてます」

 映画館の近くにあるこのカフェには、友人や彼氏と何度か訪れたことがあったが、財布はスッキリとさせたい気持ちが強くてポイントカードを作ったことはなかった。雨の日は二倍――だなんて、少しほっこりとする。
 私はその店員に頭を下げ、入り口のドアベルを鳴らした。店を出ると、友人が「今の人格好良かったね!韓国っぽいかんじ? 大学生かなあ」なんて言うのを、相槌を打ちながら苦笑した。

 
 私は友人と別れ、自宅へと向かう。携帯で友人へ、今日のことをメッセージしていると、急に手元が震えた。着信音は消していたから、バイブ音だけが静かな周囲に響く。登録されていない番号だったが、もしかしたら家電修理の人だろうか。
「はい、橘です」
『あ、もしもし。こちら杯戸家具センターの者です。洗濯機の修理に来たのですが……』
「すみません、少し出かけていて……今帰ります」
『いえ、こちらも予定時刻より早く着いたので。マンション前で待っていますね』
 ちらりと携帯に表示された時間を見る。指定した時間は、十九時半から二十時――確かに、今からだとまだ三十分ほどあった。確かに私の家の周りは似たような路地が多いし、よく隣の路地の似たマンションと間違えられることがあった。それもあって、早めに出発したのかもしれない。
 ずいぶん、丁寧な人なんだなあ。
 感心しながら、私は少しだけ家に帰る足を早くした。月明かりが眩い夜で、いつもよりも少しだけ、街並みが明るく見えた。