05


 家の近くまで行くと、マンションの手前に、家具量販店の名前と電話番号が入ったワゴンが停まっている。きっと、あの車だろう。私は緩くその車に駆け寄った。運転席にいた男は、青い帽子を顔に乗せていた。どうやら眠っているらしい。胸板が、大きくゆったりとした速度で上下している。

 私はその窓を、控えめにノックした。電話するか悩んだけれど、目の前にいるのに電話するのも妙な気分だった。ぴくりと窓の中の人物の体が跳ねて、大きな手が顔に被った帽子を外す。「ん」と、伸びをする声が窓の外にもわずかに聞こえた。
 眠たそうにした垂れた目が、ふわ、と欠伸を漏らしながらこちらに向く。そして、面白いほど丸く見開かれた。窓に映る私の影も、たぶん驚いていたと思う。
「もしかして、修理しにきてくれた?」
「やっぱりお姉さんだったんだ。号室は覚えてなかったんだけど、電話の声でそうかもって思ってて」
 車内から修理道具を下ろしながら、萩原はそう言った。
 どうやら、彼のバイト先なのだろうか。再び彼を部屋に入れるとは思わなかったけれど、私はエレベーターに乗って部屋まで案内した。部屋に入る前に、帽子を軽く取って「お邪魔します」と一礼する律義さには、つい笑ってしまう。

「これなんだけど、さっき回そうとしたらすごい音がして……」
「成程ねぇ。ちょっと失礼」

 彼は軽く洗濯機を揺らして見たり、覗き込んだりしながら一人で相槌を打っていた。そしてすぐに工具と部品を取り出すと、何やら洗濯機の下の方を弄りはじめた。せっかくだから、お茶でも出そうか。キッチンのほうでティーポットを取り出し、湯を沸かしていると、萩原が廊下の向こうから「終わったよぉ」と私を呼んだ。

「え、早い」
「うん。取り付けた足の部品が壊れてただけ。本体は壊れてないからね……ほら、洗濯機って水平じゃないと揺れるでしょ」
「そっか。じゃあそんな急いで呼ばなくても良かったのかな」
「あはは。良いんじゃない? 俺は嬉しいよ」

 手から軍手を外し、ツナギのポケットにしまいながら彼は言う。まだ湯を沸かしている段階だったが、「お茶飲んでく?」と尋ねれば、彼はまた、あの愛嬌のあるニコニコとした顔で頷いた。
「紅茶飲める?」
「好きだよ。ありがとう」
 座ってね、と以前と同じダイニングテーブルを指すと、萩原は少しだけ遠慮がちにチェアーに腰を掛ける。服のことを気にしているのかな、安物だから気にしなくて良いのに。念のために角砂糖とミルクも合わせて持っていったら、彼は「お店みたいだ」と笑っていた。
「すごいね、家電修理なんて……。アルバイトだよね」
「そーよ。昔から機械弄るのが好きでね」
「私、機械ってなかなか……。マニュアルとかもしっかり読んでるんだけどな」
「俺は逆、読んだことない」
 私は彼のティーカップに透明感のあるオレンジ色を注ぎながら、目を丸くした。マニュアルを読まない――なんて、私には信じられなかった。だって、分からないことがあったり、故障した時の対処が分からないじゃないか。
「小さい時から触りすぎて……殆ど勘みたいなモン」
「か、勘……」
 私から一番程遠い言葉だ。私が大真面目に彼の話を聞いている間に、溢れそうになった紅茶を慌てて直す。
 たぷたぷになってしまった方は自分が引き受けておいて、私はもう一杯を彼に渡した。彼は紅茶の中に、角砂糖を一つだけ落とす。いただきます、両手が合わさって、彼はティーカップを持った。大きな手には、玩具のように見える。
「うま」
 少し大げさなくらいに頬を綻ばせた表情を見て、私も満足気に紅茶を飲んだ。萩原は私の手元を見つめて、首を斜めにする。
「変わった持ち方するんだね」
「え? ああ、違うよ。本当はここの持ち手の中に指入れちゃいけないの」
「そうなの」
 萩原は意外そうに指先を見ていた。正直誰も気にしていないし、私も人がどう持とうが気にしない。完全に自己満足だが、正しくないと気が済まないのだ。

「ハンドルを三本の指でつまむように持つのが、綺麗な飲み方なんだって。両手を使わないのは紅茶がまだ温かいですよってメッセージ」
「ふうん、でも結構指の筋肉使うよね」
「まあね……。フォーマルな場でもなきゃ好きな持ち方で良いんだけど」
「でも、確かに綺麗だよ」

 正面から私の手元を見た萩原が、笑ってそう言うから、少しだけ面食らった。うんちくを垂れてしまった羞恥心も相まって、頬が赤くなるのが分かる。萩原では、きっと三本でなく二本で飲めてしまうだろうな。ウェッジウッドの華奢なティーカップを見遣って、そう思う。

 萩原の飲み方は、決して正しい飲み方ではなかったけれど、正面から見ても綺麗だと思った。コーヒーカップのほうが似合うかも。少しハードボイルドさがあるというか、そんな感じ。
 他愛ない話をしながら、ティーカップの底の模様が見えてきたころ、萩原は壁掛け時計を一瞥した。「そろそろ行かなきゃ」という萩原に、私も席を立った。玄関に向かうと、彼は今一度深く頭を下げてニコっと笑う。

「じゃ、このたびはご利用ありがとうございました〜」
「こちらこそ、ありがとうございました」

 にこやかに告げて、今日は後ろに全て流した髪が、頭を上げた拍子にハラリと零れ出た。やっぱり、髪が長いと男でもいろいろな表情があるのだなあ――。彼の姿を眺めていたら、一つ大切なことを思い出した。「あっ」思い出して声を上げたら、萩原がドアノブを回す手を止めた。

「な、名前。言うの……忘れてて……」

 こちらをくるりと振り向く男に、私は告げた。何故か、予想していたよりも一握りの勇気が必要だった。


「みずき、橘みずきです」


 そう言うと、萩原は少しだけ口を噤む。「みずき」と、彼が呟いたのが分かった。どれくらいの時間だろう、私は萩原がどうして黙るのかわからなくて、次第に靄が掛かったような気持ちになった。
 しかし、その靄を晴らすように、萩原の噤んでいた口元が緩んだように笑みを浮かべていく。その、表情が変わる瞬間に、私は目が逸らせなかった。固い結び目が解けるような笑顔は、柔らかく、覗いた歯が少しばかり子どもらしい。

「みずきさん。良い名前」

 僅かに血色を帯びた頬には、もう傷はない。代わりに、紅茶を飲んだせいか、少しだけ火照ったような色が浮かんでいた。
「実は、名前知ってたんだよね。ほら、受取表に書いてあるし」
「……そういえばさっきの電話で名乗ったっけ」
「だけど、直接聞けて良かった」
 嬉しそうにする萩原を見ると、やっぱりつられたように笑ってしまう。萩原は、耳たぶを触りながら「みずきさんは」と聞き返す。
 私――がなんだというんだろうか。いまいちその後に続く文脈が分からなくて、たぶん、難しい顔をした。萩原は私の表情を見てクック、と可笑しそうに喉を鳴らす。

「俺のこと、呼んでくんないでしょ」
「そうだっけ」
「うん。それとも、名前忘れちゃった?」

 私は首を横に振った。単純に、彼の名前を呼ぶ機会がなかったのだ。ニコニコ、と彼の顔が笑顔を浮かべる。改めてそう言われると、何と呼んでいたか分からなくなった。口をもごもごとさせてから「萩原くん」と言うと、彼は難しそうに唸った。
「固いなあ。そっちのが年上なのに」
「それはそうだけど……名前も変じゃない」
「一理ある。じゃ、また――みずきさん」
 今度こそぐっとドアを押し開けた彼に向って、私も彼の名前を呼んだ。
「うん、また。萩原くん」
 彼のいなくなった部屋は、なんだかいつも以上にスカスカだ。ティーセットを片付けながら、その静寂に一旦蓋をした。