06


 グラスの水滴を拭いながら、バレないように一つため息をついた。
 酒は嫌いなほうじゃないが、飲み会は得意じゃなかった。特に、今日は仲の良い同期が風邪で欠勤していたので、本格的に一人飲みだ。世間話に適度に相槌を打つ作業にも、そろそろ疲れてきた。
 前の彼氏がワイン好きで、私もよく色々なワインを飲み比べた。土や肥料、年代など――そのあたりの店に置いてある銘柄なら、大抵は利ける程度だ。悪い思い出があろうと、ワインに罪はない。
 抜け出せなかった二次会で、私はグラスを傾ける。時計を一瞥する。願わくば、一刻もはやく終電になれば良いと思っていた。隣に座っていた上司は、すっかり酔いつぶれてしまったらしく、テーブルに凭れかかっている。


「えー! 橘さん、彼氏と別れたの!!」

 ――いやな金切り声だった。誰だ、公言した奴は。第一、彼氏がいることさえ会社の同僚に言ったことはなかったのだけど。(まあ、彼氏の家は近いし、同期に口止めしていたわけでもないので誰のせいでもない――。)
「だって、腕時計も指輪も変わったでしょ」
 好奇心で瞳を彩った女性社員が、ずいっと身を乗り出した。否定するのも可笑しいので、「まあ」と頷いた。
「そうなの? 美人なのに、勿体ない」
「あはは……」
 彼女の隣に座っていた若い男社員が、明らかな世辞を言うので、私はますます空回りに笑った。早く帰りたい気持ちがムクムクと大きく広がっていく。酒の肴にされるのって、嫌な気持ちだ。
 私がもう少し心に余裕のある人間だったら、笑いながら「ビンタの一つかましてやりましたよ」なんて言えるのだろうか。急に私がそんなことを言い出しても、驚くだろうけども。


「あれ、みずきさん」


 ひょこりと、隣から顔を覗き込む影があった。
 さらり、と漆黒の髪が揺れる。私の髪よりも、よっぽど綺麗で艶がある。大きな影はぐっと腰を屈めていて、私の鼻をキツめの香水が刺激していった。
 私が振り向くと、彼は流れた黒髪をかき上げて、口元にニコっと笑みを浮かべた。体格もあり、ブロンズ色のジャケットを肩に掛けた男は、まさか大学生には見られないだろう。
「偶然だ」
 にひ、と笑う口元から、酒の匂いがした。
 もしかして、酔っぱらっているのだろうか。真っ赤になった太い首へ指先を伸ばすと、彼はギュウと眼を瞑った。「ウヒ〜、つめて」とはしゃぐ表情は、大人っぽさを打ち消す。

「飲み会?」
「いーや、今日はダチと……」
「そうなんだ。わざわざ来なくても良かったのに」
「だって偶然会えたら嬉しいぜ。寂しいこと言わないで」

 ふふ、と嬉しそうに笑う顔を見ていると、私も力が抜けた。
 偶然――確かに偶然なのだ。彼について知っているのは、最寄り駅と名前くらい。連絡先も交換していないので、こうしてすれ違うだけでも確率は低いはずだった。嬉しくないといったら、私も嘘になる。
「でも、友達いるんでしょ。置いてきちゃダメじゃない?」
「あ〜……良いの。俺のこと置いて潰れちゃったし」
「送ってあげたら」
「ヤローは送らない。それより、みずきさんと帰りたいし」
 ――男友達だったのか、私は心のどこかでホっと息をついた。
 どうしてかは分からないけれど、多分女友達だったら、私が横取りしたみたいで後味が悪いと思ったからだ。良いの、と尋ねると、どうせ帰る方面一緒だからと言った。ちょうど抜けたいと思っていたところだ――。
 
 私はチラリとこちらを見ている社員を振り向く。
 女社員が、僅かに色めいた視線を送っているのが分かった。萩原は慣れているのか気づいていないのか、気に留めてなかったが。どうせだったら、少し顔を貸してもらおう。
 シャツの裾をちょいっと引いて、「送ってもらうので、失礼します」と彼の方へ寄った。好きなだけ噂に泳がされれば良いのに、と心のなかで吐き捨てる。どうせ彼氏と別れた今の時点でロクな噂を立てられていないのだ。

 いや、でも萩原を巻き込んだのは迷惑だっただろうか。
 萩原はああ言っていたけど、友達と来たと言っていたし。私は「ごめんね」と謝りながら店から出た彼の姿を見上げる。

「ん?」

 冷たい風を浴びて、黒髪が夜の景色に揺れた。顔に張り付くように靡く髪の隙間から、こちらを見下げる優し気な垂れ目が見える。私の謝罪が聞こえなかったのか――それとも、何に対する謝罪なのか分からなかったのだろうか。
「いや、連れ出しちゃったから。ごめんねって」
「一緒に帰るんでしょうよ。みずきさんこそ、良かった? 職場の人だったよね」
「仲良くする気ない人だから良いよ」
 ため息交じりに言うと、萩原は可笑しそうにケラケラと声を上げた。
 少しだけ、フラついている大きな体。話し方はしっかりしているけれど、やっぱり酒が入っているらしい。私は彼の腕を軽く歩道へと引き寄せながら、ゆっくり帰り道を歩いた。

「大学の友達だった?」
「幼馴染……、腐れ縁でも良いけど」
「へえ。どんな人?」

 私が尋ねると、彼はしばらく沈黙した。応えづらい質問だっただろうか、少しだけソワソワとすること数秒後、萩原はもにゃもにゃと口籠りながらつぶやいた。

「ううん……わがまま」

 わがまま、の語尾は上がっていて、どうしてか疑問形だった。幼馴染じゃないの、と笑いながら言うと、彼はポケットに手を突っ込む。ごそごそと弄って出てきたのは、ぐしゃぐしゃに潰れた煙草のパッケージだった。メビウスのメンソールを一本取り出して、彼は手慣れた仕草で口の端で噛む。

「いやさ、難しい奴なんだよね……。我儘でガキっぽくて、でも正義漢で時々鋭くて」

 煙草をくわえながらの不明瞭な発音で、彼はぶつぶつとぼやく。風を防ぐように手で覆いながら火をつけると、大きく煙を吸い込んだ。はぁ、と息をつくと、吐息とは異なる細く長い煙が昇っていった。

「二日酔いの煙草、最悪って言ってなかった?」
「うん。でも今は二日酔いじゃないから……」
「翌日じゃなきゃ良いの」

 それは、純粋な疑問だった。煙草を吸ったことがなかったし、酒と煙草――なんてドラマではよく見るキーワードだけど。特に思うとこがあったわけじゃなくて、彼が以前言っていた台詞が気になったのだ。
 萩原は煙草の根元を指で挟み、少し考えるような間を置いた。それから私のほうをちらりと見て、「ちょっと試してみる?」と首を傾ける。髪の毛が、揺れた。


 彼は吸っていた煙草を口から離す。
 その湿った吸い口を、私の唇にちょんと押し付けた。先からは煙が細く立っている。むぐ、とつい口を噤んでしまった。いや、だって、これ。
 先ほどまで口をつけていたはずの物だから――戸惑って視線を萩原に送ると、彼は何てことのないような顔で首を傾げたままだった。萩原にとって、大したことではないのだろうか。
 ならば、私がこうして戸惑っていることのほうが、やましいような――。そんな気がしてしまって、私は彼がくわえていたのと同じ場所をぱくりとくわえた。
 苦みと、口の中をスーっと涼しいものが通っていくような感じ。ミント――というよりも、ハッカのほうが合っているかも。味に夢中になりすぎて、妙な方に煙が入った。ぐ、と喉を詰まらせて、げほっと咳き込んだら、目の前が白く染まった。

「あっははは!」

 萩原が、大きな口を開けて笑った。
 恥ずかしくて、煙草を親指と人差し指で摘まむようにしながら、笑う男の姿をジトっと見遣る。自分の周囲から、彼と同じ香りがする。香水の匂いがキツいのだと思っていたが、恐らく煙草と香水が混ざっているのだ。
「どうでしたか」
「……比べてないから分かんないでしょ」
「そりゃそうだ」
 肩を竦めながら、私の指に挟まった煙草を取り上げ、再び自分の口元へと持っていく。手慣れた風に煙草を吸う――彼の周囲の時間だけ、やけにゆったりと流れているように見えた。それが、少しだけ、私には羨ましかった。