07

 休日は、することがない。することがないと、やりたいことを作りたくなる。
 今の仕事が苦痛なわけじゃないし、毎日のように学ぶことがあるのは良いこと。努力をして結果を残せば、その分の利益が返ってくるのだから、明確で嫌いじゃない。だからこそ、休日になるとポッカリと穴が空いたような気持ちになってしまう。

 前までだったら、彼氏のためにアレやコレやと色々なことを試みていた頃だ。彼は土曜が仕事だったから、美味しいご飯を作ってあげよう。好きだって言っていた監督の最新作が出てたから借りてこよう。このワインの産地、彼の口に合いそうだな――。そんな考えに耽っているだけでも楽しかったし、それで彼がほんのりとでも笑顔を浮かべることで満足していた。
 あんな最悪な別れ方をしてしまえば、その時間の全てが無駄に思えてくるが――。
 身に付いた知識が裏切るわけじゃないし、気にしないようにはしている。無駄に詳しくなった映画もワインも、腕の上がった手料理も、いつか役に立つかもしれない。急に仕事の先方でどマイナーなB級映画の監督の話が振られたり、ワインのテイスティングが必要になる場面も――あるか? きっとあるだろう。

 ぼーっとするのは好きじゃなかった。
 やることもなく寝転んでいると、嫌なことばかり思い出してしまうのだ。前の彼氏のこと、それから両親のこと。鏡にうつる私の顔は紛れもなく父と母のパーツを受け継いでいて、それが尚更ネガティブな気持ちを引き起こしてしまう。

『ごめんね、明日は早く帰ってくるから――』

 母が、最後にそう言い残したのはいつだっただろう。
 幼いころの記憶だ。たぶん、小学校に入るまでは、そう頭を撫でられていた記憶がある。赤ん坊は構わないと泣かなくなるだなんてよく言う。だとしたら、私はだいぶ学習能力が低い人間だったのだろう。母の言う『明日』など訪れないことに、気が付くまで生まれてから十年ほど掛かったのだから。
 
 昔から、両親ともに子どもに興味をあまり持ってはいなかったと思う。
 しょうがない、そういう人たちだった。私の他愛ない子ども同士の喧嘩なんかより、今の仕事で頭がいっぱいだったのだ。このご時世だ。不自由なく、衣食住を与えられていた時点で、不満を持つのも烏滸がましいか。

 それでもさすがに、私が大会で成績を残せば。学年で上位を取れば。私の方に耳を傾けた。視線をくれた。

 その時に思ったはずなのだ――ああ、努力は人を裏切らない。

 昔の人はよく言ったものだ。私が努力したことに、見返りは返ってくる。人生とはそういう風にできている。できていたはずだった。

「……やめよ」

 そのはずだったのに。進学校へ通って、有名大学に合格し、部活でも成績を残し、就職も安定した会社に入社した。両親から、「おめでとう」のたった五文字が送られてきたことはない。寧ろ、ここ数年顔だって雑誌以外では見ない。
 私が二十数年積み上げてきたもの。ずっと生きる糧にしていた努力という文字。結局、今の私には何が残っているのだろうか。欲しいものは、何だったのだろうか。




 家の中を一通り片付けると、私は特に用事もなかったが、地元の図書館にでも出かけることにした。ブラウンのニットにフレアスカート、ロングのダッフルコート。長時間目を使うのにコンタクトだと疲れてしまうから、眼鏡はそのままだ。髪の毛はゆるくアンダーポニーにして、帰りは買い物に寄って行こうと少し大きめの鞄を持った。

 私はいつものように本棚を目の前にして、少し指を止めた。

 あまり、自分のために本を読んだことがない。
 いつも、周りに目標を求めていたからだ。彼氏のため、両親のため、進学のため、就職のため。自分が娯楽で本を読むって、どういう気分だったのだろう。それが思い出せないことが、少し怖かった。
 
 読む本なんて、好きなもので良いのに。
 ファンタジーだろうと伝記だろうと、今流行りの受賞者の本だろうと。頭では分かっていても、いまいち自分の好みというものがハッキリしなかった。今までもきっと、そうだったのだ。彼氏がいなくなって、その空白が、それを明らかにしただけだった。

『お姉さんの顔見たらご飯食べたくなっちまって』

 自由に生きる、のびのびとした表情を思い出した。
 彼は、良い。その表情や喋り口だけで、彼の中の自由さが表現されているみたいだった。私が本棚の前に突っ立っていると、後ろから「なあ」とぶっきらぼうな声を掛けられた。振り返ると、私より少し高い位置で不機嫌そうな眉が吊り上がっている。

「あんた、邪魔なんだけど」
「あ……ごめんなさい」

 なんともぶっきらぼうな話し方だった。黒いダウンジャケットを羽織った、若い男。ハードボイルドな刑事ドラマみたいにクルクルとパーマの掛かった髪形と、ミスマッチな子どものような、男にしては大きな目つきが印象的だった。

 多分、大学生か――。萩原よりも少し下くらいの年齢に見えたが、それは彼が大人びているだけかもしれない。あまり良い声の掛けられ方ではなかったけれど、どうしてかそれを当然と思わせるような、厭味のない話し方をする青年だった。

「……どれか取ってほしいの」

 ぽつ、と男が呟いた。
 誰に言ったのだかわからなくて、私は左右を確認する。――が、間違いなくその本棚付近には、私と彼しかいなかった。「私?」という意味を込めて人差し指で己を指すと、彼は眉間に浅く皺を寄せて「他にいないだろ」と言う。

 私は面食らった。無愛想な風だと思っていたが、ずいぶんと親切な青年だ。私が本棚を見上げているのを、手が届かないからだと思ったのだろう。
 その親切心を無駄にするのは悪い気がして、特に選んではいなかったが、高い場所にある小説を指さした。彼は難なく手を伸ばして、その小説を私に手渡す。
「あ、ありがとう」
「別に」
 受け取ったのは、最近出たばかりの工藤優作の新作だった。そういえば、名前を聞いたことはあるけれど、ナイトバロンシリーズを少し齧ったことがあるくらいだ。ミステリーか――、気分転換には丁度良いかも。
 私に本を手渡すと、彼はその近辺にあった推理小説をどっさりと抱えて、近くの席まで運んで行った。てっきり相当ファンなのかと思ったけれど、小説に目を滑らせている彼は少し眠たげだ。


 ――誰か、仲の良い人が好きとか。

 私も少し離れた場所で頁を捲りながら、なんとなくそう思った。私が今までそうだったからかもしれない。

 
 工藤優作の新作は、私が思っていたよりもずっと面白かった。推理小説独特の空気感やしっかりと組み立てられたトリック、最初から最後まで誰が犯人なのか疑心暗鬼になるような目線の書き方。読み始めたら思わず時間を忘れてしまって、一度最後まで読了してから、もう一度途中を読み返して――。
 ――お、面白かった……。
 私は今まで齧ってこなかった世界に後悔しながら、帰りに本屋で工藤勇作の著書を掻き集めようと決心した。図書館では、時間が足りない。


 返却棚へ本を返そうと立ち上がる。そのついでと言っては何だが、視線が先ほどの青年を勝手に追っていた。すると彼は真っ黒なダウンジャケットを頭から被って、何の生物だか――というような物体になっているではないか。
 黒いダンゴムシのような塊は、ゆっくりと膨らんだり縮んだりを繰り返している。寝ている――? 時計を見て、私は先ほどの礼代わりに、彼を起こそうと思った。彼の予定までは分からないが、気づいたらどっぷり夜だと可哀想に思えたからだ。

 
 試しにその塊をつんつんと突いてみるが、反応はない。
 多分肩かな、というところをトントンと叩くと、ようやくピクリと体が強張るのが、触れた場所から伝わった。

「あの、たぶん四時間くらい経ってますけど……大丈夫ですか?」
「ん……。あ? よじかん……四時間!」

 ばさっ、と勢いよくダウンジャケットが剥げた。おお、羽化――なんてくだらないことを考えている場合じゃない。彼は慌てたように自分の携帯を弄って、それから大きくため息をついた。
「くそ、また俺の奢りか……」
「何か予定があったの」
「ダチと飯行くだけ。遅刻したら奢りって言われてたんだよ」
 フ、と口元から息が抜けた。ずいぶん微笑ましい約束である。きっと、毎度のことなのだろう。口ぶりから普段の様子が伺えた。

「送ろうか」

 ――落ちたダウンを拾い上げて、彼の座っていた背もたれに掛ける。休日だったので、帰りは少し大きなスーパーに行こうと思っていたから、ここまでも車で来ていた。彼はキョトンと、その大きな目つきをこちらに向ける。

「そんな遠くなかったら……混む時間帯でもないし」

 腕時計を一瞥する。まだ退勤ラッシュには早いだろう。「どうかな」と尋ねると、彼は暫し目をこちらに向けたまま沈黙した。普通の人より、色素が黒っぽいように思う。茶色っ気のない瞳は、蛍光灯の灯りにキラっと意思の強そうな光を宿す。
「あ、全然嫌だったら気にしないで」
「……良いのかよ」
 口をとがらせながら、彼はチラリとポケットを片手で確認していた。無意識だろうか、その仕草がもしかしたら少しお金に困っているのかな、というのを連想させる。

 なんだかそわついた様子の彼に、私は頷いた。男は、「悪い」とくるくるの頭を掻きながら告げたのだ。