「キス、してもいいかな」

真っ直ぐ私を見つめる美しい瞳。彼のアメジストの中には、間違いなく今、私しかいない。言葉を失い何も言えずにいると、彼の手が私の顎もとに添えられ、そのままそっと唇が触れ合った。

「……はい、カット!」

監督の大きな声で、パッと彼から距離をとる。今をときめくトップアイドルの巴日和は、先程までの凛とした様子はどこへやら、表情をゆるめてスタッフに何やらわがままを言っている。ジュース買ってきてねとかこのシーン何回もやったねとかそんなところだ。

「あぁ、二人ともおつかれ。今日はこのくらいで切り上げようか。いやぁ、巴くんはアイドルだと言うからもっと時間がかかるかと思ったが、器用な子だね。なまえちゃんも噂に違わぬ名女優だ」

監督はそう言って私と巴日和に握手をして、にこやかに現場を立ち去った。巴日和は、ちらりとこちらを見てにっこり笑う。

「最初は乗り気じゃなかったけれど、きみが相手だと楽しいね!」
「……お先に失礼します」
「釣れないね!今日こそご飯に行く約束をしたね!」
「してません。お疲れさまです。また明日」

つかつかと歩き出す私に着いてきながら、彼はにこにこ笑ったまま一方的な会話を続ける。正直言って苦手だ。生まれも育ちもいい上流階級の王子さま、話しているとすごく自然に見下されるし、そのくせ愛嬌もあって思い切りがいいし何より顔が良いから、ついつい絆されてしまう。

「ねぇなまえちゃん、ぼくのことが嫌い……なわけないよね?」

エレベーターのボタンを押して待っている間、巴日和は相変わらず私に会話を強要する。

「えぇもちろん、嫌いじゃないですよ。好きでもないです。ただの仕事相手なので、それ以上でもそれ以下でもないですね」
「うんうん、なまえちゃんは照れ屋さんなんだね」
「貴方の自己肯定感、見習いたいです」
「うんうん!見習うといいね!」

チン、とエレベーターのドアが開いて、思わず眉を顰めた。誰もいない。つまり乗るのは、私と彼だけだ。そんなことを意識していると悟られることすら怖くて、平然を装いエレベーターに乗った。

やや広めのエレベーターでも、彼は私にぴったりくっついてくる。この高身長さえなければ幼子のようだ。幼子であれば、可愛がってやれるのだけれど。

「……どうしてそこまで私に構うんですか?」
「どうして?……理由が必要かな」
「え、理由ないの?」
「ふふ、あるよ。でもまだ秘密だね!先になまえちゃんから話すべきだよね、どうしてぼくを遠ざけるのか」

にこ、と爽やかな笑みで、彼は私に圧をかける。無言のまま見つめ合い、また彼の美しい宝石の中に自分を見つけた。エレベーターの音でハッと我に返り、逃げるようにエレベーターを出る。

「なまえちゃん、逃げるのは良くないね」
「……逃げてません、ただ……」

逸る鼓動を落ち着けるのに必死なだけです。なんて言えるはずもなく、ただ彼に背を向けて呼吸を整えた。

緊張したりこんなふうにドキドキしてしまったりすると、すぐに顔が熱くなる。あがり症……というほど酷くはないけれど、そんなふうに熱くなった顔を彼に見せるわけにはいかない。

ビルを出ても、彼はしつこく私の後を追ってきた。そしてビルを出てすぐの、街路樹でやや死角になっている場所に私を引っ張り込んだ。

「ただ……なに?教えて」

私の手を掴んだまま、彼は私の手を口もとに引き寄せ、手の甲にキスをする。途端にまだ完全には落ち着いていなかった心臓が跳ね、顔がかぁっと熱くなるのを感じた。

「……は、放して……」
「ダメ。なまえちゃんはぼくのお願いをひとつも聞いてくれないんだから、ぼくがなまえちゃんのお願いを聞く義理もないね」
「ねぇホントに、なんでここまでするの……?」
「わからない?……顔を上げて」

赤くなった顔を見られたくなくて俯いていると、彼の手が、あのドラマのシーンよりやや乱暴に私の顔を上向かせた。薄暗がりの中で、またアメジストの瞳が私を射抜く。私の真っ赤な顔を見て、彼は驚いたように目を丸くした。

「……だって、今まで……恋愛ドラマだって沢山出演したのに、こんなこと……こんなふうになったことなかったんだもん。日和くんを見ると、心臓がばくばくして、すごく切ないの……お願いだからもう、放っておいて。これ以上掻き乱さないで……」
「ぼくが大好きなんだね?なまえちゃんは、ぼくのことが。好きなんだよね」
「そんなの認めたくない、」
「どうして?ぼくはなまえちゃんのことが好きだね、なまえちゃんと同じように。だから何も困ることはないね!」

にこやかにそう言ってのけた彼に、どきどきも照れも恥ずかしさも、一瞬忘れてしまった。こいつ、自分がアイドルだって自覚がないのか。それとも底抜けのアホなのか。アイドルのアはアホのアなのか。

「ね、なまえちゃん……キスさせて」

ドラマのあのシーンなんかよりずっと自分勝手で、でもどこか優しくて甘い、そんなキスをされた。そうするとなんだか急に吹っ切れてしまって、思わず笑ってしまった。

「はぁ……日和くん、冷たくしてごめんね。」
「うんうん、なまえちゃんはもっとぼくを大事にするべきだね。ぼくもきみを大事にするからね!」

美しいのにどこまでも無垢で純粋な彼を見て、あぁなるほど、と納得させられてしまう。きっとこういうところに惹かれたのだ。考えすぎない堂々とした彼に、私は心を奪われてしまったのだ。

アメジストの瞳が私を射抜くあの幸福は、きっと一度知ってしまえばもう戻れない。