久しぶりに帰国した平日のある日、夏がまだ終わりそうにもない暑い日のことでした。英智との話も終わって、気まぐれにESビルの空中庭園に足を運んだのです。

外はたいへんな暑さでしたが、水色の絵の具をのばしたようなどこまでも高い空に、綿菓子のように真白な雲が浮いているのは見ていて気持ちのいいものでした。

「……あれ、渉さん?」

不意に物陰から名前を呼ばれ、ぐるりとそちらを振り向きますと、木陰のベンチに腰掛けた少女が私より驚いた顔をしていました。

「おや! なまえさん。奇遇ですね」
「えぇ、帰国なさってたんですね。一瞬幻かと」
「フフフ、どうでしょう。幻かもしれませんよ」

彼女が少し横にずれるので、彼女の隣に腰を下ろしました。彼女の髪は最後に見たときよりいくらか伸びていて、夏風が黒髪をさらうたびにふわりと花のような香りがします。

その髪に触れたいと思う手を抑え、ニッコリと笑顔を浮かべてみせました。

「触れられるのに?」

けれど、彼女は何の躊躇いもなく、すんなり私の手に触れたのです。彼女の手は熱くて、触れた肌からじわじわと体温が上がってくるようでした。か細い指が優しく私の指を絡めとって、彼女はくすりと微笑みました。

「そうですね、残念ながら今日は実体です……。ですが今度は幻で登場して驚かせてみせますよ!」
「いえ、実体でいらっしゃってください。触れられない貴方に会うのは夢で十分ですから」
「……何かのセリフですか?」

繋がれたままの手と彼女の真っ直ぐな視線、愛を仄めかすような言葉に、私はつい逃げるような返答をしてしまいました。ですが彼女はその透き通った瞳に私を映したまま、柔らかく微笑んでみせたのです。

「貴方だけへ向けた言葉ですよ。ふふ、渉さんのそんな顔、初めて見ました」

いったい、私はどんな顔をしているのでしょう。わかりませんけれど、きっとひどい顔なのだろうということだけは確かでした。木陰にいるのに顔も身体も酷く熱くて、上手く笑顔が作れないままでいたのですから。

「すみません、情けないところをお見せして……」
「可愛らしくて良いと思いますよ」
「貴女、しばらく見ないうちに性格が変わってませんか……?」
「貴方のせいですよ」

私が赤い顔を隠そうと項垂れると、彼女は空いている方の手で優しく私の横髪を耳にかけました。ちらりと彼女のほうを見れば、彼女もほんのりと頬を紅く染めて、はにかむように笑っていました。

その様子はまるで花が開いたときのように愛らしく、私の目はすっかり彼女に釘付けになってしまったのです。

「渉さんが卒業して、中々会えなくなって、初めて自分の気持ちがわかったんです。……夢で貴方に会うたび、次に現実で会えたら絶対に言おうと思っていたんです。渉さん、私――」

彼女のくちびるから次の言葉が出てくる前に、私はほとんど衝動的に、彼女の細い肩を掴んでそのくちびるを塞ぎました。舞台では、今まで何度だってロマンティックな口づけをしてきました。

けれど今は不格好で、心臓は大きな音を立てながら熱い血液を忙しなく全身へ巡らせています。

くちびるを離すと、彼女は太陽よりもよほど熱い顔で、驚いたように私を見つめました。私はというと、やはり彼女から目を離せないまま、今口にするべき言葉を必死で探しておりました。

「…………愛しています、」

やっとの思いで絞り出したのは、そんな陳腐な愛の言葉でした。これまで様々に愛を語ってきたというのに、いざ台本の外で伝えようとするとこんなにも上手くいかないなんて。

「私も、です」

彼女はぽつりとそう呟いたあと、またふわりと優しく、これ以上にないほど幸せそうな笑顔を浮かべました。その笑顔を見ると、先程の情けなさなどまるで取るに足らないことのように思えました。

不意に、さらりと夏風が彼女の黒檀のような髪を靡かせました。その髪に手を伸ばし、横髪を小ぶりな耳にかけて頬を撫でると、まるで磁石が引き合うようにもう一度キスをしました。

……遠くではまだ蝉がうるさく鳴いている、夏の日のことでした。