「……アメージング! どうなさったんです、こんな時間にこんなところで」

雨の降る中、夜の十二時近くに、彼女はぼうっと地面に座り込んで空を見上げていました。

私が声をかけ彼女の前にしゃがみこむと、彼女はその丸い瞳で不思議そうに私を見つめたのです。無垢で無知な赤子のような瞳でした。

「……渉」
「ええ! あなたの日々樹渉です」
「わ、……わたる……。渉、」

まさしく赤子のように、彼女は拙いくちびるで何度も私の名前を呼びます。

どうも様子が普通でないと察しましたので、彼女を抱き上げ、一旦家に連れて帰ることにしました。どのみち、このずぶ濡れのままではいけませんでしたから。

「一体どうしたと言うんです? まさか言葉が話せなくなったのですか?」
「…………うー……?」
「……ふふ、本当に赤子のようですね」

よしよし、と彼女の頭を撫で、どしゃ降りの雨の中家路を急ぎました。

やがて家に着くと、ずぶ濡れの彼女をバスタオルで拭いてやり、ソファに座らせました。彼女は挙動もどこか幼げで、油断するとそこいらのものを口に入れてしまうのではないかというふうな気がしました。

「んー、う……渉、わたる」
「はいはい、渉ですよ。貴女、本当にそれしか話せないんですか?」
「うー?」

ソファに座らせた彼女の隣に腰掛けると、彼女はこてんと首を傾げます。それから私の髪を手に取って遊び始めました。

「わたる、」
「……どうして私なんでしょう? 英智のほうが仲が良かったですよね」
「……えい…、わたる!」
「惜しかったですね。フフ、あっ痛」

ぐい、と髪を引っ張られて、そのまま思わず彼女をソファに押し倒してしまいました。まずい、と身体を離そうとしましたが、彼女は楽しそうに笑って私に抱き着いてきます。本当に無邪気な三歳くらいの子供のように、充分大人なはずの身体で。

「いけませんよ、離してください」
「えへへ、渉、すき」
「……離してください」

ぐい、と少し強めに彼女を突き放すと、彼女は驚いたように目を丸くしたあと、くしゃりと顔を歪めました。しまった、と思ったときにはもう遅く、彼女は元気いっぱいに泣き喚き始めたのです。

「あぁ、あぁ……泣かないでください、大丈夫ですから……」

彼女の身体を起こして、軽く揺さぶりながら背中を叩いてみます。そうやって暫くあやしていると、彼女はべそべそと涙を流したまま、私の肩に抱きついて眠ってしまいました。

「…………本当に赤ん坊になってしまったのでしょうか……」


――翌日病院にかかったところ、彼女はストレスのあまり幼児退行してしまったのだそうです。お医者さまには精神的なものだからじきに治ると言われましたが、彼女は中々元に戻りません。汚れなど何も知らないような甘い声で、ただひとり、私の名前だけをはっきりと口にするのです。

どうしてこんなことになる前に、私の名を呼んでくれなかったのですか。なんて、今の貴女に言ったところで……。