呼吸ひとつ
……正直に告白をしますと、あの日、私は浮き足立っておりました。それ故に視界が狭まっていたのです。あの日のことを思い出せば思い出すほど、後悔ばかりが募ります。
彼女が脚本・演出を、私が主演をつとめた舞台が、光栄にもコンテストで最優秀作品となったときのことです。花束を渡され、私と彼女、それからあと数名の演者が授賞式の舞台に上がりました。普段は滅多に表舞台に上がらない彼女が、その日は無理に舞台へ引っ張りだされていたのをよく覚えています。
私には慣れたライトの中、演者のコメントのあと、とうとう彼女にマイクが渡りました。私が彼女にマイクを手渡したとき、彼女の手が震えているのに気付きました。けれど、緊張しているのですね、としか思わなかったのです。
「……あ、の…………」
「……?」
彼女は、中々声を発しませんでした。不思議に思って隣を見ると、顔色は驚くほど真っ青で、マイクを握る手はがたがたと震えていました。
「あ、……っごめ、なさ……っわ、た、」
渉、と呼ばれた気がしました。彼女は涙目になって、ひゅう、と変な呼吸をし、それから一気に呼吸が出来なくなってしまいました。咄嗟にマイクを取り上げ、私の背に彼女を庇うようにして、パッとマジックを一つ披露してみせます。その場の人々の注目は集めておいて、なんとか場を上手くまとめようとしたのです。
私の背中のシャツを、彼女の手が力いっぱい握り締めていました。一刻も早く、幕を下ろして欲しかった。こんな気持ちになったのは生まれてはじめてでした。ただ、彼女のことが心配でした。
何とかして、授賞式はうまく切り上げられました。司会の方が、優秀賞受賞作品やその他の作品がコメントをするよう流れを変えてくださったのです。彼女はずっと、息が出来ないまま、私の服の裾にしがみついていました。
「落ち着いてください、大丈夫です、もう大丈夫ですから。息を吐いて、吐ききってください」
「わっ、わた……げほっ、ぐ、るじい、」
「私の呼吸に合わせてください」
過呼吸に陥って戻ってこられない彼女を、なんとか宥めようとしました。彼女はどうしても上手く呼吸ができないようでした。私は彼女を抱き上げ、人目のつかないところまで連れ出しました。そして未だに震えている体を強く抱き締め、落ち着くまで彼女の背を優しく撫でました。
「…………っ、う……、渉……、ふう、はぁ……っわたる、」
「……大丈夫、大丈夫ですよ、ここにいますから……」
彼女の身体はずっと震えていて、今にも輪郭を失って瓦解してしまいそうでした。私はそれが恐ろしくて、今腕の中にある硝子のようなそれをこの手で壊してしまいそうな気がして、彼女から少し距離を取りました。
ほんの一、二ミリです。触れないように、壊さないように――しかしそれも最善とは思えず、ただぼう然としていました。
「……ごめ、んね…………せっ、せっかくの、授賞式、だっ、だったのに……私、」
「良いんですよ、そんなこと」
「私……ひ、人の前に立つの、怖くって……ごめんなさい、今度だけは、なんとしても頑張ろうって思ってたのに……」
彼女の長い睫毛がじんわり濡れて、ぽたり、と滴が私の膝あたりに落ちました。堰を切ったように溢れる涙を手ですくおうとしても、どうにもなりません。彼女から溶けだしたどうしようもない懺悔は、無力な私の手をじわりじわりとすり抜けていくばかりでした。
私は、彼女を理解できませんでした。人前に立つことが恐ろしいのだと、恐ろしさのあまり呼吸すら出来なくなるのだと、そういう彼女の脆さを私は共感してやれなかったのです。
その後彼女は落ち着きを取り戻しましたが、大事をとって私が自宅までお送りしました。それ以来、今のところは、彼女が同じように取り乱すこともありません。ですが、今でもあのときのことは頻繁に思い出されます。
きっと、もっとかけるべき言葉があったのでしょう。きっと、もっとすべきことがあったのでしょう。愚かしいほど私は道化であって、そして役者であったのです。脚本家たる彼女の言葉がなければ、彼女のことを小指の爪の先ほども理解できません。
……現に私は、目の前の彼女の呼吸すら、いつ止まってしまうかと不安で仕方ないのです。
彼女が脚本・演出を、私が主演をつとめた舞台が、光栄にもコンテストで最優秀作品となったときのことです。花束を渡され、私と彼女、それからあと数名の演者が授賞式の舞台に上がりました。普段は滅多に表舞台に上がらない彼女が、その日は無理に舞台へ引っ張りだされていたのをよく覚えています。
私には慣れたライトの中、演者のコメントのあと、とうとう彼女にマイクが渡りました。私が彼女にマイクを手渡したとき、彼女の手が震えているのに気付きました。けれど、緊張しているのですね、としか思わなかったのです。
「……あ、の…………」
「……?」
彼女は、中々声を発しませんでした。不思議に思って隣を見ると、顔色は驚くほど真っ青で、マイクを握る手はがたがたと震えていました。
「あ、……っごめ、なさ……っわ、た、」
渉、と呼ばれた気がしました。彼女は涙目になって、ひゅう、と変な呼吸をし、それから一気に呼吸が出来なくなってしまいました。咄嗟にマイクを取り上げ、私の背に彼女を庇うようにして、パッとマジックを一つ披露してみせます。その場の人々の注目は集めておいて、なんとか場を上手くまとめようとしたのです。
私の背中のシャツを、彼女の手が力いっぱい握り締めていました。一刻も早く、幕を下ろして欲しかった。こんな気持ちになったのは生まれてはじめてでした。ただ、彼女のことが心配でした。
何とかして、授賞式はうまく切り上げられました。司会の方が、優秀賞受賞作品やその他の作品がコメントをするよう流れを変えてくださったのです。彼女はずっと、息が出来ないまま、私の服の裾にしがみついていました。
「落ち着いてください、大丈夫です、もう大丈夫ですから。息を吐いて、吐ききってください」
「わっ、わた……げほっ、ぐ、るじい、」
「私の呼吸に合わせてください」
過呼吸に陥って戻ってこられない彼女を、なんとか宥めようとしました。彼女はどうしても上手く呼吸ができないようでした。私は彼女を抱き上げ、人目のつかないところまで連れ出しました。そして未だに震えている体を強く抱き締め、落ち着くまで彼女の背を優しく撫でました。
「…………っ、う……、渉……、ふう、はぁ……っわたる、」
「……大丈夫、大丈夫ですよ、ここにいますから……」
彼女の身体はずっと震えていて、今にも輪郭を失って瓦解してしまいそうでした。私はそれが恐ろしくて、今腕の中にある硝子のようなそれをこの手で壊してしまいそうな気がして、彼女から少し距離を取りました。
ほんの一、二ミリです。触れないように、壊さないように――しかしそれも最善とは思えず、ただぼう然としていました。
「……ごめ、んね…………せっ、せっかくの、授賞式、だっ、だったのに……私、」
「良いんですよ、そんなこと」
「私……ひ、人の前に立つの、怖くって……ごめんなさい、今度だけは、なんとしても頑張ろうって思ってたのに……」
彼女の長い睫毛がじんわり濡れて、ぽたり、と滴が私の膝あたりに落ちました。堰を切ったように溢れる涙を手ですくおうとしても、どうにもなりません。彼女から溶けだしたどうしようもない懺悔は、無力な私の手をじわりじわりとすり抜けていくばかりでした。
私は、彼女を理解できませんでした。人前に立つことが恐ろしいのだと、恐ろしさのあまり呼吸すら出来なくなるのだと、そういう彼女の脆さを私は共感してやれなかったのです。
その後彼女は落ち着きを取り戻しましたが、大事をとって私が自宅までお送りしました。それ以来、今のところは、彼女が同じように取り乱すこともありません。ですが、今でもあのときのことは頻繁に思い出されます。
きっと、もっとかけるべき言葉があったのでしょう。きっと、もっとすべきことがあったのでしょう。愚かしいほど私は道化であって、そして役者であったのです。脚本家たる彼女の言葉がなければ、彼女のことを小指の爪の先ほども理解できません。
……現に私は、目の前の彼女の呼吸すら、いつ止まってしまうかと不安で仕方ないのです。