「あ、お疲れ様です」

と、口に出したことは覚えている。事務所に一人残っていた弓弦さんを見つけて、私は確かにそう挨拶をしたのだ。けれど次の瞬間には目の前が真っ暗になって、ふらりとその場に膝を着いていた。

「大丈夫ですか」
「あ……あはは、すみません、どうも……」

顔色を変えて駆け寄った弓弦さんは、温かい手で優しく私の背を撫でてくれた。綺麗な顔だなあ、とぼんやり考えるくらいの余裕はあるはずなのだけれど、如何せん身体が上手く動かない。

「お怪我はありませんか? ……顔が真っ青ですよ。また無理をなさったのでしょう。立てますか?」
「…………ごめんなさい、なんか……」

立てるはず、立てないわけがないのに、立たなければと思うとじわりと涙が滲んだ。何にしても、「しなければならない」と思うことがどうしようもなくつらいことのように思えたのだ。

「……いけませんね。そんなふうになるまで、ご自分を追い詰めてしまうなど」
「ごめ、なさ……」
「謝らないでくださいまし。……大丈夫ですよ、少し休憩致しましょう。温かいものでもお入れしますから」

ぐずぐずに泣いてしまった私に、弓弦さんは優しくそう言い聞かせてくれた。そして床に座り込んだまま立ち上がれない私を、彼は軽々と抱き上げた。

「わ、っあ、重いですよ……」
「ふふ、大丈夫ですよ。寧ろ心配になるほど軽うございます」
「……何してるんです、あんたら」

不意に聞きなれた声が向こうから聞こえて、溢れた涙もそのままに声のした方を向いた。事務所の入り口で、茨くんが呆れたような不機嫌そうな顔をして立っている。

「他所の事務員を泣かせて何をしてるんです?」
「違うの、茨くん、あの……」

私が上手く言葉を選べずにいると、弓弦さんは落ち着いて私をソファに下ろし、ぽんと優しく頭を撫でてくれた。

「倒れるほどお疲れのようでしたから、何か飲み物でもお入れしようとしていたところですよ。……どちらかと言えば、泣かせたのは其方では?」
「は?」
「あっ、え、あの弓弦さん、私が勝手に無理してしまっただけで、茨くんは休めって言ってくれてたので……」

途端に邪険な雰囲気になったことに冷や汗をかきながら、なんとかこの場をおさめようとする。けれど茨くんも凄い剣幕で弓弦さんを睨み付けているし、弓弦さんも先程までの穏やかさからは想像もできないほど冷たい視線を茨くんに寄越していた。

「それでも部下を管理できていなかったことに変わりはありません」
「部外者が口出ししないでくれますかね」
「おやおや、図星のようですね」
「うるさい! あんたは自分のご主人様にだけ尻尾振ってれば良いだろ、俺のモンに手ぇ出さないでくれます!?」

二人の言い合いが次第にヒートアップしていく。宥めてやらないと、誤解を解いて喧嘩をやめさせないと……と思ったところでまた涙が溢れてきた。

「あの、ごめんなさい、喧嘩しないで……今、ちょっと上手く仲裁できないので……」
「……いえ、こちらこそつい、すみません」
「…………」

何も言わない茨くんを見て、弓弦さんは咎めるように眉を寄せる。私が涙を必死に拭って顔を上げると、やはり不機嫌そうな顔のままの茨くんが、ぶっきらぼうに唇を尖らせた。

「俺だって、お姫様抱っこくらいできますけど」

それがあんまりいじらしくて可愛くて、つい泣きながら笑ってしまった。私がくすくす笑うのを見て、弓弦さんは少しホッとしたように微笑みを浮かべる。

それにしても、弓弦さんと茨くんが顔見知りらしいのは知っていたけど、まさかこんなふうに喧嘩をするような仲だとは思わなかった。でも、何にせよ、二人とも落ち着いてくれたようでひと安心だ。

「帰りは自分が送っていきますから」
「それは不安ですね。私も同行致します」

いや、もしかするとちっとも落ち着いてくれていないのかもしれないけれど。