夜闇の中、桜がひらひら舞っていた。風が吹いて、視界いっぱいに桜色が広がる。その真ん中に、きみはいた。

控えめなデザインのドレスを身にまとって、黒髪を春の風に靡かせ、きみはこちらに気付くと柔らかな微笑を浮かべる。

「抜け出してきたんですか?……天祥院さん」
「きみは……」
「あぁ、なまえといいます。みょうじなまえです」
「みょうじ……そうか、ぼくと同じ歳頃の、たいそう大事にされている娘がいると聞いたことがあったけれど、きみのことだったんだね」

ぼくが彼女の隣に近付くと、彼女はくすりと眉を下げて苦笑する。所作も、笑顔も、髪の一本一本までも、まるで一枚の絵画のようだ。

「過保護だから、今日やっと初めてパーティーに参加したんです。天祥院さん主催のパーティーなら、大丈夫だろうって……、天祥院さん?」

つい、その真白な頬に、手を伸ばしてしまう。ゆるりと指の背で頬を撫でると、彼女はこちらを不思議そうに見つめた。

甘いブラウンの瞳に射抜かれると、身体の輪郭が揺れてなくなってしまうようだった。夢見心地のまま、口を開いて、言葉を探す。

「……きみさえ良ければ、英智って、呼んで欲しいな」
「…………英智……さん?」
「うん、何だろう、きみを見ていると……足がなくなってしまうみたいだ。幽霊にでもなったような気分だよ」
「ふふ、おかしい。こんなに暖かいのに?」

彼女の手のひらが、柔らかくぼくの手を包む。外にいたからか、彼女の手は少し冷たい。手の甲に彼女の体温を感じながら、お互い、何も言わずに視線を絡め合う。

「今夜のパーティーはつまらなかった?」
「……そうね、貴方に会うまでは」
「そう。なら……誰にも内緒で、このまま抜け出してしまおうか」

彼女の腰に手を回すと、彼女は笑ってこくりと頷いてくれた。バルコニーを降りて、桜並木の道を少し歩く。

満月の静かな明かりが、きらきらと夜闇を照らしている。甘い桜の香りの中で二人、知らぬ間に手を繋いで歩いていた。

「今日みたいなパーティーは頻繁に?」
「いや、身体が弱いから、あまり。でも今日は来られて良かったよ」
「私も、来て良かった。……ううん、貴方に会えて、嬉しい」

ぶわ、と、風が吹く。心が空っぽになる。彼女の笑顔にかかる絹糸のような黒髪を手でどけて、そのまま、桜色の唇にキスをした。

柔らかな甘い感触の後、はたと正気に戻る。風が止むと、彼女は頬を薄紅色に染めて、驚いたようにぼくを見つめていた。

「……一目惚れなんて、信じていなかったのだけれど」

言い訳のように吐いた言葉は、あんまり不恰好で、つい赤面してしまう。彼女は指先で自分の唇をなぞり、それから、雪が溶けたようにふにゃりと笑った。

「ふふ、私も」

軽やかな愛らしい声に心を掴まれて、もう動けない。心が言葉にならないまま、ただ、目の前で優しく微笑む彼女を欲する。ゆらゆら足もとがゆらいで、熱に浮かされたように身体が動いた。

腕は彼女を抱き寄せ、もう一度、触れるだけのキスをする。風にかき乱された心は、もうきみに出会う前には戻らないのだろう。今はそんなことしか、わからない。