夜が明けたら
ピンポン、と指先でインターホンを押しました。もうすっかり辺りは暗くなって、冷たい夜風がひらひらと髪をあそばせています。私は久しぶりにやって来た恋人のアパートで、ほんの少しだけ鼓動を早めたまま彼女の応答を待っていました。
「はぁい」
「どうも!貴女の日々樹渉です……☆」
「あぁ」
ぶつりと声が消えて、すぐにドアが開けられました。彼女は私を見ると、くすりと優しく微笑んで中へ迎えてくれます。
「おかえりなさい」
「……えぇ、ただいま帰りました」
一瞬、ドキッとして言葉を失ってしまいました。しかし急なアドリブに答えられないようでは役者の名折れだと、何とか平静を装います。迎えられるまま中へ入れば、冷えた頬がじんわりと溶けるように温まります。奥のほうからは、出汁の良い香りが漂っていました。
「いい匂いですね。何か作ってくださったんです?」
「さあ……どう思う? 当ててみて」
玄関口で、彼女は悪戯っぽく笑って首を傾げてみせました。
「そうですねぇ……私の可愛い恋人は、私のために美味しい白米、お味噌汁、それから焼き鮭を用意してくれたのではないでしょうか」
「うむ、正解者にはご褒美をあげようじゃないか」
彼女は満足そうに頷くと、少し背伸びをして私の頬にキスをしてくれました。てっきり唇にしてくださると思っていたので何となく寂しく思いつつ、彼女に手を引かれるまま居間へ向かいます。
「待ってて、すぐ用意するから」
「あの」
踵を返そうとする彼女の手を取って引き止めてから、自分がほとんど何も考えないまま動いていたことに少し驚きました。不思議そうに私を見上げる彼女の瞳を見つめて、何となく気恥ずかしく思いつつも、その温かな身体をぎゅうっと抱き締めました。
「……今日、その…………」
胸の奥がむず痒く、ずっとこのまま彼女を抱きしめていたいような、そんな陳腐なまでの幸福感に溺れてしまっているようでした。
彼女は私の背に手を回し、私の中々出てこない言葉の続きを待ってくれています。
「…………ありがとうございます、招待してくださって」
「うん、こちらこそ、来てくれてありがとうね。でも今日は特別だから、会えただけでそんなに喜んでたら日付が変わる頃には幸せすぎて死んじゃってるかも」
「私、そんなに幸せになってしまうんです? ……これ以上?」
「残念だけど今日が命日になることも覚悟しておいてね」
彼女の愛らしい冗談をすぐそばで聞きながら、額を彼女の肩口に擦り寄せて、食むようにうなじにキスをしました。が、このままでは離れられなくなってしまう、と何とか理性を引っ張り出し、彼女から離れます。彼女は慈愛に満ちた聖母のような眼差しで、私を見つめていました。
「いい子で待てる?」
「手伝いますよ」
「だめ。待ってて」
「わかりました……ありがとうございます」
渋々、上着を掛けてぽつんと座卓の前に座ります。
狭いダイニングに立つ彼女をぼんやり眺めながら、もし同棲……或いは結婚をすればこんなふうなのでしょうか、としみじみ幸福を噛み締めました。帰宅すれば彼女が「おかえりなさい」と微笑んで迎えてくれて、こうしてあたたかな食卓を用意してくれる。いえ、私が夕食を準備して彼女を迎えるのも面白そうです。きっと、刺激的で驚きと喜びに満ち溢れた日々になることでしょう。
「渉」
「はい……おっと、これは……」
「せっかくだし、ね」
彼女はスーパーの袋から缶チューハイや果実酒、ビール、ウイスキー、焼酎、日本酒を取り出してずらりと机に並べました。座卓は美味しそうな夕飯と酒類で埋め尽くされています。
「こんなに飲むんですか?」
「…………うん。色々、飲んでみようよ。リキュールとかも買ったから、飲みたいのあったら作ってあげれるし」
「そういえば居酒屋でアルバイトなさってましたね。まぁせっかくですし、飲めるだけ飲んでみましょうか」
近くにあった缶チューハイを取ると、彼女はみかんの果実酒をグラスに注ぎました。カシュ、と栓を開け、向かいに座った彼女に向け缶を掲げます。お互い何も言わずに乾杯をして、ごくりとひとくち、流し込みました。
「……では、いただきますね」
「どうぞ」
缶を置いて手を合わせ、箸を取ります。テレビもつけず、しかし何か特に談笑するわけでもなく、心地よい沈黙だけが場を満たしていました。
「ふふ、美味しいですね」
「良かった」
お味噌汁を飲む彼女の、長いまつ毛がそっと伏せられました。行儀よくお椀を傾けるそのありふれた姿を、私はじっと目に焼きつけるように見つめていました。
「……温かいですね」
「熱くない?」
「いいえ、あたたかいですよ」
「そっか」
お酒もそこそこに、夕食を食べ終える頃には彼女はかなり酔いが回っている様子でした。私はというと、案外アルコールには強いらしくあまりいつもと変わらず、ただ彼女のふわふわした様子をぼんやり見守っていました。
「わたる……酔ってないの?」
「そうですねぇ、今のところは」
「そっかあ、何かつくろうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。貴女、そろそろ眠いんでしょう? 片付けはやっておきますから」
食器をまとめて重ね、ぼうっとしたままの彼女を座らせたまま一旦シンクに移動させます。水につけてから戻ると、先程まで座っていた彼女が立ち上がって、じっと私を見つめていました。
「どうしました? お手洗いですか?」
「…………わたる、」
彼女は幼い子どものような舌っ足らずな口ぶりで、甘えるように私の名前を呼びました。
何となく、何を求められているのか、彼女が何を言いたいのかわかるような気がしました。彼女に近付き、赤くなった頬に手をやります。このまま溶けて消えてしまいそうなほど熱く柔らかな頬が、そっと私の手に擦り寄ってきます。
「……」
何も言えないまま、言わないままで、今度は彼女の唇にキスをしました。ふわりと香ったアルコールに混じった仄かなりんごは、私たちの愚かさを知っていたのでしょうか。
狭いアパートの、この狭いベッドだけが世界のすべてなら、どんなに良かったでしょう。カーテンの隙間から薄く朝日の光が差し込んで、暗い部屋のテーブルの上をぼんやりと照らしていました。テーブルの上には片付けられなかった空き缶や、ぬるくなったウイスキーやリキュールが静かに佇んでいます。そしてその傍らには、まだ残りのあるコンドームの箱がありました。
彼女の言う通り、日付が変わる頃に、私は幸せのあまり死ぬべきだったのでしょう。明けない夜などないのですから。夜が明けたら、私は彼女を置いていってしまうのですから。
彼女と別れることを決めたのは、つい先日のことでした。理由は、もう数えきれません。今まで誤魔化し続けていましたが、勿論私の職業柄もありますし、加えて彼女の母親が具合を悪くしたので田舎に帰ることにしたということもありました。他にも些細な理由はいくらでもあります。お互い多忙で滅多に会うこともありませんでした。
彼女には私だけでないから、私には彼女だけでないから、私たちは諦めたのです。これはごくありふれた終わりの形に過ぎませんでした。
壁の方を向いて胎児のように体を丸めて眠る彼女を、私はじっと見つめていました。柔らかな髪をそっと撫でようとして、思い留まります。
「……愛しています。誰よりも深く、貴女だけを」
そっと、今日ずっと言えずにいた言葉を吐き出しました。小さな肩は震えていました。
私はひとり、ベッドを出て、冷たくなった衣服に袖を通しました。彼女の、小さく嗚咽を噛み殺す音と、鼻をすする音だけが、部屋に響いていました。私はそれ以上何も言わず、上着を持って玄関へ向かいました。
靴を履いたとき、一瞬、振り向いてしまいそうになりました。それでももうここにはいられません。彼女にかける言葉なんてあるはずがないのです。ごくりと唾を飲んで、息を吐き、冷たいドアノブに手をかけました。
ドアを開けると、眩いばかりの朝日が目を刺しました。あまりの眩しさに目を細めると、太陽はじわりと目にしみて、私の視界はとうとう歪んで何も見えなくなってしまったのです。
「はぁい」
「どうも!貴女の日々樹渉です……☆」
「あぁ」
ぶつりと声が消えて、すぐにドアが開けられました。彼女は私を見ると、くすりと優しく微笑んで中へ迎えてくれます。
「おかえりなさい」
「……えぇ、ただいま帰りました」
一瞬、ドキッとして言葉を失ってしまいました。しかし急なアドリブに答えられないようでは役者の名折れだと、何とか平静を装います。迎えられるまま中へ入れば、冷えた頬がじんわりと溶けるように温まります。奥のほうからは、出汁の良い香りが漂っていました。
「いい匂いですね。何か作ってくださったんです?」
「さあ……どう思う? 当ててみて」
玄関口で、彼女は悪戯っぽく笑って首を傾げてみせました。
「そうですねぇ……私の可愛い恋人は、私のために美味しい白米、お味噌汁、それから焼き鮭を用意してくれたのではないでしょうか」
「うむ、正解者にはご褒美をあげようじゃないか」
彼女は満足そうに頷くと、少し背伸びをして私の頬にキスをしてくれました。てっきり唇にしてくださると思っていたので何となく寂しく思いつつ、彼女に手を引かれるまま居間へ向かいます。
「待ってて、すぐ用意するから」
「あの」
踵を返そうとする彼女の手を取って引き止めてから、自分がほとんど何も考えないまま動いていたことに少し驚きました。不思議そうに私を見上げる彼女の瞳を見つめて、何となく気恥ずかしく思いつつも、その温かな身体をぎゅうっと抱き締めました。
「……今日、その…………」
胸の奥がむず痒く、ずっとこのまま彼女を抱きしめていたいような、そんな陳腐なまでの幸福感に溺れてしまっているようでした。
彼女は私の背に手を回し、私の中々出てこない言葉の続きを待ってくれています。
「…………ありがとうございます、招待してくださって」
「うん、こちらこそ、来てくれてありがとうね。でも今日は特別だから、会えただけでそんなに喜んでたら日付が変わる頃には幸せすぎて死んじゃってるかも」
「私、そんなに幸せになってしまうんです? ……これ以上?」
「残念だけど今日が命日になることも覚悟しておいてね」
彼女の愛らしい冗談をすぐそばで聞きながら、額を彼女の肩口に擦り寄せて、食むようにうなじにキスをしました。が、このままでは離れられなくなってしまう、と何とか理性を引っ張り出し、彼女から離れます。彼女は慈愛に満ちた聖母のような眼差しで、私を見つめていました。
「いい子で待てる?」
「手伝いますよ」
「だめ。待ってて」
「わかりました……ありがとうございます」
渋々、上着を掛けてぽつんと座卓の前に座ります。
狭いダイニングに立つ彼女をぼんやり眺めながら、もし同棲……或いは結婚をすればこんなふうなのでしょうか、としみじみ幸福を噛み締めました。帰宅すれば彼女が「おかえりなさい」と微笑んで迎えてくれて、こうしてあたたかな食卓を用意してくれる。いえ、私が夕食を準備して彼女を迎えるのも面白そうです。きっと、刺激的で驚きと喜びに満ち溢れた日々になることでしょう。
「渉」
「はい……おっと、これは……」
「せっかくだし、ね」
彼女はスーパーの袋から缶チューハイや果実酒、ビール、ウイスキー、焼酎、日本酒を取り出してずらりと机に並べました。座卓は美味しそうな夕飯と酒類で埋め尽くされています。
「こんなに飲むんですか?」
「…………うん。色々、飲んでみようよ。リキュールとかも買ったから、飲みたいのあったら作ってあげれるし」
「そういえば居酒屋でアルバイトなさってましたね。まぁせっかくですし、飲めるだけ飲んでみましょうか」
近くにあった缶チューハイを取ると、彼女はみかんの果実酒をグラスに注ぎました。カシュ、と栓を開け、向かいに座った彼女に向け缶を掲げます。お互い何も言わずに乾杯をして、ごくりとひとくち、流し込みました。
「……では、いただきますね」
「どうぞ」
缶を置いて手を合わせ、箸を取ります。テレビもつけず、しかし何か特に談笑するわけでもなく、心地よい沈黙だけが場を満たしていました。
「ふふ、美味しいですね」
「良かった」
お味噌汁を飲む彼女の、長いまつ毛がそっと伏せられました。行儀よくお椀を傾けるそのありふれた姿を、私はじっと目に焼きつけるように見つめていました。
「……温かいですね」
「熱くない?」
「いいえ、あたたかいですよ」
「そっか」
お酒もそこそこに、夕食を食べ終える頃には彼女はかなり酔いが回っている様子でした。私はというと、案外アルコールには強いらしくあまりいつもと変わらず、ただ彼女のふわふわした様子をぼんやり見守っていました。
「わたる……酔ってないの?」
「そうですねぇ、今のところは」
「そっかあ、何かつくろうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。貴女、そろそろ眠いんでしょう? 片付けはやっておきますから」
食器をまとめて重ね、ぼうっとしたままの彼女を座らせたまま一旦シンクに移動させます。水につけてから戻ると、先程まで座っていた彼女が立ち上がって、じっと私を見つめていました。
「どうしました? お手洗いですか?」
「…………わたる、」
彼女は幼い子どものような舌っ足らずな口ぶりで、甘えるように私の名前を呼びました。
何となく、何を求められているのか、彼女が何を言いたいのかわかるような気がしました。彼女に近付き、赤くなった頬に手をやります。このまま溶けて消えてしまいそうなほど熱く柔らかな頬が、そっと私の手に擦り寄ってきます。
「……」
何も言えないまま、言わないままで、今度は彼女の唇にキスをしました。ふわりと香ったアルコールに混じった仄かなりんごは、私たちの愚かさを知っていたのでしょうか。
狭いアパートの、この狭いベッドだけが世界のすべてなら、どんなに良かったでしょう。カーテンの隙間から薄く朝日の光が差し込んで、暗い部屋のテーブルの上をぼんやりと照らしていました。テーブルの上には片付けられなかった空き缶や、ぬるくなったウイスキーやリキュールが静かに佇んでいます。そしてその傍らには、まだ残りのあるコンドームの箱がありました。
彼女の言う通り、日付が変わる頃に、私は幸せのあまり死ぬべきだったのでしょう。明けない夜などないのですから。夜が明けたら、私は彼女を置いていってしまうのですから。
彼女と別れることを決めたのは、つい先日のことでした。理由は、もう数えきれません。今まで誤魔化し続けていましたが、勿論私の職業柄もありますし、加えて彼女の母親が具合を悪くしたので田舎に帰ることにしたということもありました。他にも些細な理由はいくらでもあります。お互い多忙で滅多に会うこともありませんでした。
彼女には私だけでないから、私には彼女だけでないから、私たちは諦めたのです。これはごくありふれた終わりの形に過ぎませんでした。
壁の方を向いて胎児のように体を丸めて眠る彼女を、私はじっと見つめていました。柔らかな髪をそっと撫でようとして、思い留まります。
「……愛しています。誰よりも深く、貴女だけを」
そっと、今日ずっと言えずにいた言葉を吐き出しました。小さな肩は震えていました。
私はひとり、ベッドを出て、冷たくなった衣服に袖を通しました。彼女の、小さく嗚咽を噛み殺す音と、鼻をすする音だけが、部屋に響いていました。私はそれ以上何も言わず、上着を持って玄関へ向かいました。
靴を履いたとき、一瞬、振り向いてしまいそうになりました。それでももうここにはいられません。彼女にかける言葉なんてあるはずがないのです。ごくりと唾を飲んで、息を吐き、冷たいドアノブに手をかけました。
ドアを開けると、眩いばかりの朝日が目を刺しました。あまりの眩しさに目を細めると、太陽はじわりと目にしみて、私の視界はとうとう歪んで何も見えなくなってしまったのです。