ぼくのお気に入り
ここのところ、密かに楽しみにしていることがある。
ぼくがいつものように鼻歌を歌いながら星奏館を出ようとしたとき、偶然ジュンくんと鉢合わせた。
「あれ、おひいさん……どっか行くんですか?」
「うん、ちょっとお散歩だね!」
「はあ……いつもは誰か連れ回すのに珍しいっすね。あんま目立たねぇでくださいよ」
「うんうん、ぼくのこの輝きは多少のことで隠せるようなものじゃないけど、一応気を付けてあげるね! ばいばいジュンくん!」
「えっ……ホントに一人で行っちまった……」
いつもならジュンくんを無理にでも連れて行くところだけど、今日は違う。スキップしてしまいそうなほど軽い足取りで街を歩いて、平日昼間の人気のない河川敷までやって来た。
「うんうん、今日もいい日和……☆」
サア、と頬を撫でる春風が、優しい音色を運んでくる。その音を頼りに芝生を歩けば、川岸に例の楽しみを見つけた。彼女は毎週火曜日のこの時間、決まってこの場所でフルートを吹いている。
「こんにちはっ、今日もいいお天気だね!」
「わっ…………あぁ、びっくりした。こんにちは」
ぼくが後ろから声をかけると、彼女はその薄い肩を微かに揺らして振り向いた。風に揺れる黒い髪が綺麗で、つい指を絡ませてしまう。けれど、さらりと艶やかな髪はすぐにぼくの指をすり抜けてしまった。
「ふふ、綺麗だね」
「貴方に言われても」
「そう? 確かにぼくはとっても綺麗だけど、きみも充分綺麗だよね!」
「……ありがと」
フルートを持つその華奢な指も、褒めるとすぐに紅潮する柔らかそうなほっぺも、全部全部ぼくのお気に入りだ。
ぼくは彼女の名前も年齢も職業も知らないし、どうやら彼女もぼくの肩書きなんかはちっとも知らないらしいけれど、寧ろそのほうが良いようにも思えた。どこの誰だとか、何をしているだとか、そんなことはどうだっていい。ただ春の桜のように綺麗な彼女が、この時間はぼくだけのものになる。それだけで充分だった。
「毎週毎週、よく飽きないね。私は気晴らしに吹きに来てるけど、貴方はずっと私の演奏を聴いているだけじゃない」
「ちっとも退屈じゃないね! だってぼくがいる間、きみはぼくのために演奏してくれるよね? ぼくのためだけにきみの時間と労力が消費されるのは気分がいいねっ」
「う〜ん……まぁ、退屈じゃないなら……良いけど」
奥歯にものが詰まったような素振りだった。でも迷惑だから来ないでほしいと言いたいわけでもなさそうだ。いったい何を言い淀んでいるんだろう、と、少し屈んで彼女の瞳を覗き込んだ。
「何か言いたいことがあるならちゃんと言ってほしいね」
「え…………っと、や、その、私……」
ふいと目を逸らした彼女の頬を両手で挟み、無理やり目を合わせる。するとみるみるうちに柔いほっぺが火傷しちゃいそうなほど熱くなった。
「わあ、りんごみたいだね!」
「は、離して……」
「うんうん、きみがちゃんと白状するまで離してあげないね!」
「違うの、私はただ、貴方と会えるのはこの時間と場所だけなのかなって……演奏を聴いてくれるのは嬉しいけど、でも私、もっと貴方のことが知りたい、な、とか……思って」
いつもの凛とした演奏からは想像もつかないほど、弱々しく震えた声だった。真っ赤になって緊張に震えながら打ち明けた彼女を見て、何かあたたかいものが胸に込み上げてくる。その衝動を抑えることもなく、彼女の薄桃色のくちびるにキスをした。
「……きみがこうしてぼくのことを考えて、ぼくのためにきみの時間を使ってくれるのなら、ぼくはきみがどこのだれで、普段何をしているのかなんてどうでもいいね。でも、きみにはぼくのこと沢山教えてあげる。だからきみの頭の中、ぼくでいっぱいにしてね」
硝子玉みたいに透き通る瞳は、動揺しながらもぼくだけを映している。
これからどこで何をしていても、病気みたいにずぅっとぼくのことを考えてくれるなら、きっとそれ以上に幸福なことはない。青い空を見て、春風に吹かれて、フルートを吹いて、いつもぼくのことを思い出せばいい。そのためならぼくはなんでもしてあげる。
「それじゃあ、今日は一緒にカフェにでも行こうね!」
真っ赤になったまま固まる彼女の髪にキスをして、にっこり笑ってみせた。