指先にちいさな羽虫が止まっていた。そっと軽く手ではらったつもりだったが、それは俺の手のうえで呆気なく潰れてしまった。これだから弱いものは鬱陶しいのだ。

ティッシュを取って手を拭き取り、部屋に誰もいないのを良いことに重い溜め息をついた。

 今日は朝から雨だったせいか、何となく気が重い。だからこそ、昼食をこんな小さな会議室までやって来てひとりで済ませているのだ。ユニットメンバーにも他のアイドルにも、今は極力会いたくない。こんな些細なことで万が一HiMERUのイメージを落としてしまったらと思うと、やはり人と会うことは危ぶまれた。

 とそのとき、ガチャリとドアノブが回され誰かが入って来た。驚いて椅子に座ったまま振り返ると、見知った顔と目が合う。

「あれ? HiMERUさん。お疲れ様です」
「……ええ、お疲れ様です」

コズプロの事務員である彼女は、俺を見るとニコッと無邪気に微笑んだ。目を細めて静かに会釈を返す。

「すみません、勝手に使わせていただいていました。HiMERUは出て行きますね」
「あっ、まだ大丈夫ですよ。この部屋を使うのは三時からなので……お昼ご飯食べてたんですか?」

 彼女は腕いっぱいに抱えた資料を、ぼふっと机の上に置いた。湿気で跳ねる髪を手ぐしで整えてサイドに流す。依然として彼女はにこにこ愛想良く笑っていた。

「えぇ。貴女は会議の準備ですか?」
「そうなんです。ちょっと早いですけど。ごめんなさい、お昼の時間を邪魔しちゃって」
「いえ、勝手に使っていたのはHiMERUのほうですから。お気になさらず」
「……ここ、人もあまり来ませんし、静かで良いですよね。私もたまに来るんです」

 しばらく、他愛のない会話を続ける。さっさと話を切り上げて部屋を出るべきだったのだろうが、不思議とそんな気にはならなかった。彼女が資料をホッチキスでパチン、パチンと止めていくのを、俺はただジッと観察していた。

 彼女の上向きにカールした睫毛はそっと伏せられ、その視線は作業中の手もとへ注がれている。彼女の指先は、四、五枚の用紙をペラペラ捲ると、両手でその束を整え、最後に左上をホッチキスでパチンと留める。その慣れた手つきは惚れ惚れするほど効率的で素早い。

 何か話題を提供しようとして、やはり思い留まり、口を噤む。この心地好い沈黙が破られることのほうが嫌だった。このままぼんやりと、嫌な思考に囚われることなく彼女を見つめていたい。

 そうしてしばらく黙りこんでいると、不意に彼女が顔を上げた。咄嗟に視線を逸らせずに、まっすぐ目が合う。後ろの窓からさらりと涼しい風が狭い部屋に吹き込んできた。

「ふふ、そんなに見られたら穴があいちゃいます」

冗談めかして笑う彼女は、一旦作業をやめて、その指先で口もとを隠す。その様子があまりに無邪気で愛らしく、思わず顔が少しゆるんでしまった。

 彼女は梅雨の陰鬱さに吹き込む爽やかな初夏の風のようだ。あんなに鬱屈とした気分も、優しくどこかへさらわれて最早どこにも見当たらないのだから。