誰か、いる。

振り返って見てみても、そこにはしんと静まり返った夜闇が広がっているだけで、人の気配はない。しかし前を向き直って歩き出すとまた、背後に気配を感じる。見られているような、気がする。

 じっとりと冷や汗をかいたまま、早足で家へ向かった。玄関前に着いてまた後ろを見てみたけれど、やはりどこにも人の姿は見えなかった。




 と、こういうふうなことがここ二、三ヶ月続いているので、夜も不安であまり眠れず、精神は日に日にすり減っていた。

「……はあ」

大きなため息をついて、朝こしらえてきたおにぎりを食べる。いわゆるストーカーというやつなんだろうか、或いは心霊的な何かなんだろうか……どちらにせよ恐ろしいことに変わりはない。

「おやおや! 大きなため息ですねぇ、幸せが逃げてしまいますよ……☆」

 突然目の前に現れた彼、日々樹渉さんは、私の座っていたベンチの隣に生えている木からみのむしのようにぶら下がった状態で私に薔薇を差し出してきた。驚いてむせながらも素直に薔薇を受け取ると、彼は華麗に一回転して地面に降り立ち、私の隣に腰掛けた。

「大丈夫ですか?」
「げほっ……だ、大丈夫ですけどもう少し普通に出て来てください」
「フフフ、善処致します! ところで何かお悩みのようですね? 疲れた顔をしておられますが」
「あー……」

首を傾げてこちらを窺い見る日々樹さんから、そっと目をそらす。ため息の原因、つまり例の奇妙な気配については、視線や気配を感じるだけで実害はないし、自意識過剰だと思われてしまう可能性だってある。しかし誰かに聞いてもらいたいという思いも十分にあった。

「ふむ、そこまでお考えになるということは、やはり単なる日々の生活の疲れではないようですね?」
「うっ……、そのとおりです……」

確かに即答できない時点で何かあるのは確実だ。察知されてしまったのなら、もう正直に打ち明けてしまおう……と思い、私はぽつぽつと事の顛末を彼に話した。

「警察には?」
「いえ……特に窃盗被害なんかもありませんし」
「確かに、ここまで実害がないと動いてはくれなさそうですね……しかし何かが起きてからでは遅いでしょう。あなたさえ許してくださるなら、どうでしょう? 今日から私があなたの騎士となりお見送りをする、というのは」

 彼は切れ長の目を細めて、薄いくちびるで弧を描き微笑を浮かべた。骨ばった男らしい手が私の頬に触れたかと思えば、指先がくちびるの横にふれる。どうやらご飯粒を取ってくれたらしい。

「……でも、私の勘違いかもしれないし……日々樹さんにそんなご迷惑をおかけするわけには」
「勘違いだったならそれはそれで良いのですよ、あなたが危険に晒されていないということなら。それに迷惑だなんて思いません、あなたをお守りできるなんてこのうえない栄誉です!」

大げさに喜んでみせる彼を見て、つい力が抜けてしまった。私がくすくす笑うと、彼も優しく穏やかな笑みを浮かべる。

「本当に日々樹さんにご迷惑じゃないなら……負担にならないなら、お願いしてもいいですか?」
「ええ、もちろんです!」

 本当はずっと不安で不安で仕方なかった。今は何も被害がないけれど、もしかすると誰かにつけられていて、家だってバレていて、いつか怖い目にあうんじゃないか……と。実家を離れてひとり暮らしだったから余計に怖くてたまらなかった。

だから彼が優しく笑って「守る」と言ってくれたとき、本当に心の底から安堵したのだ。ずっと張り詰めていた糸がゆるむように、固い氷が溶けていくように。




 でもそれは間違いだったのだろうか。




 日々樹さんと一緒に家路につくようになってしばらく経った。何度かお礼に手料理でもと誘ったのだが、彼は紳士的に断り、送るだけ送ると帰って行った。例の気配については、日々樹さんといる間にはちっとも感じなかった。ただ、彼が帰ってしまったあとひとりで自宅にいるときや、出先で空いた時間をひとりで過ごしているときなんかには、まだ気配を感じた。

 ある日のこと。その日は夕方から急な大雨だったけれど、日々樹さんは雨で視界が悪いと余計に心配だと言っていつもどおり律儀に家まで送ってくれた。が、傘が一本しかなく、相合傘をして帰ったせいで日々樹さんも私もびしょ濡れになってしまったのだった。

「日々樹さん、上がってください。身体をあっためないと風邪ひいちゃいます」
「いえ、ですが……」
「今日はダメです! 絶対このままじゃ帰しません、大人しくお風呂であたたまってから帰ってください!」

遠慮する彼の腕を掴み、半ば無理やり家に上がらせた。鍵とチェーンをかけて、彼を風呂場まで案内する。

「あなたも濡れたでしょう、私は後で構いませんから」
「ダメです。日々樹さん、ずっと私が濡れないように傘を傾けてくれてたでしょ。日々樹さんが入らないと私も入りませんから。絶対!」

我ながらあんまり強引だ、とは内省しつつ、ここまではっきり言わないときっと聞いてくれないと考えたので頑として譲らなかった。すると日々樹さんも観念したのか、息を吐いて頷いた。

「ええ、わかりました。家主に従いましょう……ですがあなたもタオルで身体を拭いて、冷やさないようにして待っていてくださいね」

 本当に優しいひとだ。いつでも周りをよく見ていて、頼りがいもあるし、気配りも上手い。それになんだか彼といると、あの不審な気配だって怖くないような気がしてくるのだ。彼なら何が襲ってきても――ストーカーだろうが幽霊だろうが――撃退してくれそうだ。

 随分前に別れた恋人が置いていった衣服類の、なるべく綺麗なものを日々樹さんに渡して、私も交代でシャワーを浴びる。外はまだ雷もなっていて、雨は勢いを増すばかりだった。この様子だと、もう家に泊まってもらったほうが安全かもしれない。しかしアイドルとしては良くないだろうか。

 もやもやとこれからのことを考えながらシャワーを済ませ、部屋着に着替えて部屋へ戻った。長い髪をタオルで丁寧に拭き取っている日々樹さんと目が合う。一瞬、心臓がどきっと鷲掴みにされたような気がした。

「髪……やっぱり長いですね。大変じゃないですか? 乾かすのとか」
「そうですねぇ、時間はそれなりにかかります」

なんとなく、会話がぎこちない。彼は普段通りに見えるけれど、私のほうがなんだかおかしい。何を話せばいいのかがちっともわからなかった。考えでも考えても、結局当たり障りのない言葉しか出てこない。

「……あ、えっと、ドライヤー洗面台にあるので、使うなら……わっ!?」

彼に少しだけ近づくと、突然手首を掴まれてそのままベッドへ押し倒された。ぐるりと視界が回転して、彼の長い髪が視界を覆う。

「なまえさん。これ……男性用ですよね?」

日々樹さんはかつてないほど静かな低い声で、自身が今着ているシャツを指して訊ねてきた。

「え、っと、」
「恋人のものですか?」
「元……です。昔付き合ってた人の……」
「ほう。どうして置いているんです?」

何故こんな問答が繰り広げられているのかわからなかった。わからないけれど、彼が私の知っている日々樹さんじゃないみたいで、口答えをするのが恐ろしく思えたのだ。

「捨て忘れてただけです」
「そうですか」
「……し、知らない人の着ていた服なんて、気持ち悪いですよね。ごめんなさい」
「アハハ……平気ですよ、そんなことはね」

 彼はアメジストのような瞳を細めて口だけで笑う。まるで狼やライオンが、えものをとらえたときのような鋭い眼差しだった。濡れたままの髪がじっとりと枕にくっついて、頭部やうなじのあたりはじめじめしている。私は身動きひとつ取れず、じっと縋るように彼を見つめ返していた。

「……私、あなたのこと誰よりも愛していますし、あなたよりもあなたのことを理解している自覚があります」
「は……?」
「あなたのことならなんでも知っています。あなたがどんな人間に心を許すのか。あなたがどんな人間を必要としているのか……あなたはいつ、どんな状況に恐怖を感じるのか」
「何を言ってるんですか」

彼の大きな手が、ひたりと私の首にあてられる。ドクドクと心臓が嫌な走り方をしていた。手はみっともなく震えていたし、背筋には冷や汗をかいていた。

「その証拠に、あなたはきちんと恐怖を感じましたし、そして私に好意を抱いたでしょう? 私があなたの恐怖の対象として、或いは頼りがいのある紳士的な理想の男性として、演技を全うできたからです。そうでしょう?」

もはや声は出なかった。瞬きすら忘れて、逆光で翳る彼の顔だけを凝視していた。

「ああ、やっと……ようやくあなたに触れられるのですね」
「いや……離して、」
「いけませんよ。貴方が招き入れたのでしょう? 可哀想な赤ずきん。オオカミに騙されて食べられてしまうなんて」

辛うじて出した言葉は力なく震えていた。彼の手を振りほどくこともできず、私はもはや、えものとして寝そべっていることしかできなかった。

 恐ろしいのはストーカーでも幽霊でもなくて、隣で微笑んでいたこの男だったのだ……と気づいたときにはすべてが遅かった。