「あ……いらっしゃいませ。いいお天気ですね」

優しい声と軽やかなドアベルの音に迎えられて、ぼくはお気に入りのカフェに入る。実家とは全然関係ない、小さくてこじんまりとした個人経営のカフェだ。ぼくは決まってカウンター席に座って、店の手伝いをしているらしい彼女とお話をする。

「こんにちは。うんうん、今日は暖かくていいお天気だね! ここに来る途中、桜が綺麗に咲いてたよ」
「桜。良いですね、春がきたって感じで……そうそう、桜といえばいま、桜味のカフェラテをやってるんですけどどうです?」

彼女はメニューを開いて、期間限定の文字が添えられた薄桃色のカフェラテの写真を見せてきた。いつもは紅茶を頼むけれど、たまには別のものもいいかもしれない。ぼくはメニューから彼女へ視線をうつして、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめてにっこりと笑った。

「うんうん、美味しそうだね! じゃあそれにしようかな。それと今日はいちごのタルトが食べたいね!」
「かしこまりました。ちょっと待っててくださいね」

透き通って鼓膜に染み込むような柔らかな声。彼女はその形の整った白い指先で、器用に手早くドリンクを作る。カチャカチャと食器の動く音に、こぽこぽとお湯の沸く音。彼女がキッチンで立てる音たちはまるでオーケストラみたいだ。彼女が楽しげに演奏するのを見るのが、ぼくの何よりのお気に入りだった。もちろん食事も好きだけれど。

「……おまたせしました。どうぞ、熱いですから気をつけてくださいね」
「ありがとう、いただくね」

目の前に出された白い陶器のカップを取り、ふぅ、と軽く冷ましてから口をつける。ふんわりやさしいミルクの味と一緒に、甘いさくらの味がした。

「うん、美味しいね」
「甘すぎませんか?」
「そうだね、ちょっと甘いけど……ぼくは好き」

ちら、と目線だけを彼女に移すと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。ああ誤解すらしてくれないんだね、とは言わなかった。口のなかの甘さがほんの少しだけもどかしい。

「良かった。少し甘すぎたかなって心配だったんです。あ、どうぞ、いちごのタルトです」
「うん、ありがと」

コト、と真っ白でつやつやの皿に乗った真っ赤ないちごのタルトがテーブルにそっと出された。フォークを手に取って、ひと口ぶんを取り分ける。いちごを乗せたかけらを口に含めば、いちごの爽やかな甘酸っぱさとタルト生地のほのかで素朴な甘さが口のなかで混じりあった。


「んん、美味しいね。いちごもちゃんと甘くて」
「いちご、たまに酸っぱいのありますもんね。お口に合ったみたいで良かったです」

すると不意に、カランカランとドアベルが鳴った。ぼくが来たときに他のお客さんが来るのは珍しいことだった。

……珍しいけれど、絶対にないことじゃない。彼女はぼくの前を離れて、新しくやって来た常連らしいお客さんのもとへ注文を取りに行く。

ぼくだけの彼女じゃない。ぼくだけのさくらラテじゃないし、ぼくだけのいちごタルトじゃない。このお店にぼくだけのものなんて、ひとつもない。

彼女は注文を取るとまたぼくの前に立って、視線が合えば綺麗に笑顔を返してくれる。いつかはぼくだけの彼女になってほしい、なんて欲張りは、今は胸の奥にそっとしまっておこう。