波にゆらめく
「今日は楽しかったね」
「うんうん、ぼくもいっぱい楽しめたね! いい日和!」
終電には早い、帰宅ラッシュ後の改札前。手は繋がないし、お別れのハグもキスもしない。何度も恋人みたいにふたりきりで出かけたけれど、恐らく、彼にとって私はただの友人にすぎないのだろう。だから今日も、さらりと別れを告げてお互い改札を抜けたら正反対の方向のホームに向かう。
と、思っていた。けれど、手を振って改札を抜けようとしたとき、不意に手首を掴まれ引き留められた。
「ねえ、待って」
「……ど、どうしたの?」
滅多に見ない真剣な眼差しにたじろぐ。一度合わせた視線は逸らせないまま、彼の言葉を待った。彼は数秒間黙って私を見据えたあと、にっこりといつもの綺麗な笑顔を浮かべた。
「まだ時間あるよね? ちょっと寄り道しない?」
「寄り道?」
「うん。着いてきてね♪」
有無を言わさず、彼は私の手を引く。二人で改札を通り抜けて、いつもは使わない三番線のホームで電車を待った。二両編成の普通電車に乗り込み、がらんと空いた席の隅っこに肩を並べて座る。
車窓からは暗くて外が見えない。ただ、彼と私が隣同士座っている姿だけが反射していた。なぜだか、手は繋いだままだった。
「あの……どこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみだね!」
彼は上機嫌そうにすぐ隣で笑った。この電車はさほど遠くには行かない。けれどこのまま行けばどんどん町外れに向かって、やがては海のほうまで行ってしまう。
途中に何かあるわけでもないし、たぶん、彼は海を目指しているのだろう。それがただの気まぐれなのか否かはわかりかねるけれど。
三十分ほど電車に揺られた末に、車掌が終点を告げた。また彼に手を引かれて電車を下りる。終着駅は、街灯も少ししかない寂れた無人の駅だった。彼に着いて駅を出ると、すぐ目の前には真っ暗な海が見えた。
ざあ、と穏やかな波のさざめきが聞こえる。まるい月が海面に反射してゆらゆら揺れていた。彼は防波堤を越えて砂浜に降り、ようやく私の手を離す。
「わあ、思ってたより真っ暗だね! ……わ、まだ冷たいね」
「え、っ日和くん、」
彼は靴も靴下も砂浜に脱ぎ捨てて、浅瀬に足をつけた。潮風に揺られて若草色の髪が舞う。月を背に海へ入る彼は、まるで神話に出てくる神さまみたいだった。
彼は振り向き私に手を差し伸べる。そうして宝石よりも美しいその瞳で、真っ直ぐに私を捉える。
「おいで」
その声に誘われ、私はさっきの彼と同じように靴を脱ぎ裸足になって彼の手を取った。もう夏が始まる頃とはいえ海水はまだ冷たい。けれどそんなことも気にせずに手を取り合って、じっと視線を絡めたままでいた。
不思議な気分だった。まるでおとぎ話のお姫さまにでもなったような、足もとの覚束無い夢を見ているような気がした。
ふと、彼は私のウエストに左手を添え、右手で私の左手を握る。まるで優雅に踊るようなそのステップに、私は不格好につまづきながらも合わせて足を動かした。波と一緒に揺れているようだった。
「このまま、ずっと踊っていたいね。二人っきりで」
「……二人で?」
「うん。きみと二人で」
彼は歌うようにそう言った。足の裏に砂の柔い感触が染み込む。
「ずっと、ずぅっと我慢してたんだけどね。でもきみが別れ際に寂しそうな顔をするから、我慢できなくなっちゃったんだよね」
「え、ほんとに?」
「うんうん、ぼくと離れたくないって顔に書いてあったね。ぼくもきみと離れたくないね。……お互い同じように思っているなら、離れなければ良いよね?」
「……離れなくても良いの?」
彼は変わらずステップを踏んで円を描くように踊る。転げてしまわぬように彼の肩に手を置いた。すると彼は不意に足を止めて、私の身体を抱き寄せたのだ。
「うん。もう離してあげない」
彼の柔らかな髪が頬を掠める。身体がぴったりくっつくと、お互いの心臓の音が溶け合ってひとつになっていくような感覚に陥った。
じわりと視界が滲んで頬が濡れる。……初めてのキスは海の味がした。
それからしばらく、私たちは特に何を話すでもなく海辺で体を寄せ合っていた。けれど終電に近くなって、ぐっしょりと濡れた足のまま靴を吐き無人駅に戻った。
誰もいない電車の窓からは、やっぱり外は見えなかった。ただ、窓にうつる二人の姿は、行きとは少しだけ違って見えたような気がした。
「うんうん、ぼくもいっぱい楽しめたね! いい日和!」
終電には早い、帰宅ラッシュ後の改札前。手は繋がないし、お別れのハグもキスもしない。何度も恋人みたいにふたりきりで出かけたけれど、恐らく、彼にとって私はただの友人にすぎないのだろう。だから今日も、さらりと別れを告げてお互い改札を抜けたら正反対の方向のホームに向かう。
と、思っていた。けれど、手を振って改札を抜けようとしたとき、不意に手首を掴まれ引き留められた。
「ねえ、待って」
「……ど、どうしたの?」
滅多に見ない真剣な眼差しにたじろぐ。一度合わせた視線は逸らせないまま、彼の言葉を待った。彼は数秒間黙って私を見据えたあと、にっこりといつもの綺麗な笑顔を浮かべた。
「まだ時間あるよね? ちょっと寄り道しない?」
「寄り道?」
「うん。着いてきてね♪」
有無を言わさず、彼は私の手を引く。二人で改札を通り抜けて、いつもは使わない三番線のホームで電車を待った。二両編成の普通電車に乗り込み、がらんと空いた席の隅っこに肩を並べて座る。
車窓からは暗くて外が見えない。ただ、彼と私が隣同士座っている姿だけが反射していた。なぜだか、手は繋いだままだった。
「あの……どこに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみだね!」
彼は上機嫌そうにすぐ隣で笑った。この電車はさほど遠くには行かない。けれどこのまま行けばどんどん町外れに向かって、やがては海のほうまで行ってしまう。
途中に何かあるわけでもないし、たぶん、彼は海を目指しているのだろう。それがただの気まぐれなのか否かはわかりかねるけれど。
三十分ほど電車に揺られた末に、車掌が終点を告げた。また彼に手を引かれて電車を下りる。終着駅は、街灯も少ししかない寂れた無人の駅だった。彼に着いて駅を出ると、すぐ目の前には真っ暗な海が見えた。
ざあ、と穏やかな波のさざめきが聞こえる。まるい月が海面に反射してゆらゆら揺れていた。彼は防波堤を越えて砂浜に降り、ようやく私の手を離す。
「わあ、思ってたより真っ暗だね! ……わ、まだ冷たいね」
「え、っ日和くん、」
彼は靴も靴下も砂浜に脱ぎ捨てて、浅瀬に足をつけた。潮風に揺られて若草色の髪が舞う。月を背に海へ入る彼は、まるで神話に出てくる神さまみたいだった。
彼は振り向き私に手を差し伸べる。そうして宝石よりも美しいその瞳で、真っ直ぐに私を捉える。
「おいで」
その声に誘われ、私はさっきの彼と同じように靴を脱ぎ裸足になって彼の手を取った。もう夏が始まる頃とはいえ海水はまだ冷たい。けれどそんなことも気にせずに手を取り合って、じっと視線を絡めたままでいた。
不思議な気分だった。まるでおとぎ話のお姫さまにでもなったような、足もとの覚束無い夢を見ているような気がした。
ふと、彼は私のウエストに左手を添え、右手で私の左手を握る。まるで優雅に踊るようなそのステップに、私は不格好につまづきながらも合わせて足を動かした。波と一緒に揺れているようだった。
「このまま、ずっと踊っていたいね。二人っきりで」
「……二人で?」
「うん。きみと二人で」
彼は歌うようにそう言った。足の裏に砂の柔い感触が染み込む。
「ずっと、ずぅっと我慢してたんだけどね。でもきみが別れ際に寂しそうな顔をするから、我慢できなくなっちゃったんだよね」
「え、ほんとに?」
「うんうん、ぼくと離れたくないって顔に書いてあったね。ぼくもきみと離れたくないね。……お互い同じように思っているなら、離れなければ良いよね?」
「……離れなくても良いの?」
彼は変わらずステップを踏んで円を描くように踊る。転げてしまわぬように彼の肩に手を置いた。すると彼は不意に足を止めて、私の身体を抱き寄せたのだ。
「うん。もう離してあげない」
彼の柔らかな髪が頬を掠める。身体がぴったりくっつくと、お互いの心臓の音が溶け合ってひとつになっていくような感覚に陥った。
じわりと視界が滲んで頬が濡れる。……初めてのキスは海の味がした。
それからしばらく、私たちは特に何を話すでもなく海辺で体を寄せ合っていた。けれど終電に近くなって、ぐっしょりと濡れた足のまま靴を吐き無人駅に戻った。
誰もいない電車の窓からは、やっぱり外は見えなかった。ただ、窓にうつる二人の姿は、行きとは少しだけ違って見えたような気がした。