幸福なモラトリアム
最初から、勿論承知の上でした。彼女とこうして交際させていただいているのは、彼女の優しさゆえに他ならず、決して彼女が私に好意を持っているからではないのだ……と。
ですからいつかこんな日が来ることも、頭ではわかっていたつもりなのです。
電柱の影、私の見つめる先にはお洒落なカフェのテラス席が見えました。二人席に腰掛けている彼女と、向かいに座る見知らぬ男性。男性の顔は見えませんでしたが、彼女の楽しげな屈託のない笑顔を見ただけで全てを察しました。
最早、彼女の心の中に私の居場所などないのでしょう。いいえ、そんなもの最初からどこにもなかったのかもしれません。
――とぼとぼと二人で借りたアパートに帰り、私はもやもやと様々なことを考えました。二人で選んだソファに腰掛けたまま、時間が経つのも忘れてボーッとしていたのです。
「ただいまぁ」
「ヒィッ!? あっ、お、おかえりなさいませ……!」
「あはは、びっくりしすぎ〜」
彼女の帰宅に驚き飛び上がると、彼女はそんな私を見て可笑しそうにくすくす笑いました。愛らしいその笑顔を見た瞬間、きゅうっと胸が締め付けられるように痛むのを感じました。
言葉に迷い、何も言えずにそのまま俯いてしまいました。昼間の件を問うべきなのか、それとも大人しく別れを……告げるべきなのか、矮小な私にはわからなかったのです。
「マヨイさん、どうしたの? 暗い顔」
「あ、いえ……その」
「うん?」
彼女は私の隣に腰掛け、そっと手を重ねてきました。じんわりと柔く温かいその手に触れると、今更彼女が愛おしくて愛おしくて、どうしようもなく離れがたく感ぜられたのでした。
「……昼間、貴女をカフェで見かけました。その……卑しい願いだとわかっているのですが、貴女の一番でなくても構いませんから、どうか、どうかお傍にいさせてください……」
「……えぇと、なんの話……? カフェってことはお兄ちゃんと居た時? 見かけたなら声かけてくれたら良かったのに」
「えっ? か、カフェで会っていた男性、お義兄様なのですか……?」
俯けていた顔を上げると、彼女はきょとんとした顔で頷きました。嘘をついていないことなんて明らかでした。呆気に取られて言葉を失ってしまう私を、彼女はまた愛らしい微笑みを浮かべ見つめてきました。
「もしかして浮気されたと思った? それで、一番じゃなくて良いけど別れたくないって言ったの?」
「うぅ……すみません……貴女を信じているのに私は……」
体を縮こませて背を向けようとしましたが、彼女に優しく阻まれ、顔をつき合わせてしまいました。彼女はコツンと額を触れさせて、笑いながら私の頬を両手で包みます。
「浮気だってすぐ思われたのは、ちょっとショックかな……でも、それでも傍にいたいって言ってくれたのは嬉しいよ。私はず〜っとマヨイさんが一番だけど、変わらず傍にいてね」
「ヒィ……ち、近いですぅ……」
「お詫びのキスしてくれないと退かない」
言い出すと譲らないのは重々承知していますから、無駄な抵抗はせず、一瞬触れるだけのキスをしました。そうすると途端に安堵してしまって、思わず彼女を強く抱きしめてしまいました。
彼女の甘い髪の香りや柔らかな身体が、やはりどうしようもなく愛おしく、中々離す気になれませんでした。それでも、彼女は嫌な顔一つせずに私を抱き返してくれたのです。
「大丈夫、大好きだよ」
「はい……私も、愛しています……心から」
どれほど私が醜くとも、彼女の純粋で真っ直ぐな愛を信じないことより彼女に不誠実なことはありません。それは痛いほど理解しています。
けれど、わかっていてもどこかで信じきれないのは、彼女に愛されることが抱えきれないほど幸福だからというだけなのです。
ですからどうか時間をください、この幸福を素直に噛み締められるようになるまでの時間を……あともう少し。
ですからいつかこんな日が来ることも、頭ではわかっていたつもりなのです。
電柱の影、私の見つめる先にはお洒落なカフェのテラス席が見えました。二人席に腰掛けている彼女と、向かいに座る見知らぬ男性。男性の顔は見えませんでしたが、彼女の楽しげな屈託のない笑顔を見ただけで全てを察しました。
最早、彼女の心の中に私の居場所などないのでしょう。いいえ、そんなもの最初からどこにもなかったのかもしれません。
――とぼとぼと二人で借りたアパートに帰り、私はもやもやと様々なことを考えました。二人で選んだソファに腰掛けたまま、時間が経つのも忘れてボーッとしていたのです。
「ただいまぁ」
「ヒィッ!? あっ、お、おかえりなさいませ……!」
「あはは、びっくりしすぎ〜」
彼女の帰宅に驚き飛び上がると、彼女はそんな私を見て可笑しそうにくすくす笑いました。愛らしいその笑顔を見た瞬間、きゅうっと胸が締め付けられるように痛むのを感じました。
言葉に迷い、何も言えずにそのまま俯いてしまいました。昼間の件を問うべきなのか、それとも大人しく別れを……告げるべきなのか、矮小な私にはわからなかったのです。
「マヨイさん、どうしたの? 暗い顔」
「あ、いえ……その」
「うん?」
彼女は私の隣に腰掛け、そっと手を重ねてきました。じんわりと柔く温かいその手に触れると、今更彼女が愛おしくて愛おしくて、どうしようもなく離れがたく感ぜられたのでした。
「……昼間、貴女をカフェで見かけました。その……卑しい願いだとわかっているのですが、貴女の一番でなくても構いませんから、どうか、どうかお傍にいさせてください……」
「……えぇと、なんの話……? カフェってことはお兄ちゃんと居た時? 見かけたなら声かけてくれたら良かったのに」
「えっ? か、カフェで会っていた男性、お義兄様なのですか……?」
俯けていた顔を上げると、彼女はきょとんとした顔で頷きました。嘘をついていないことなんて明らかでした。呆気に取られて言葉を失ってしまう私を、彼女はまた愛らしい微笑みを浮かべ見つめてきました。
「もしかして浮気されたと思った? それで、一番じゃなくて良いけど別れたくないって言ったの?」
「うぅ……すみません……貴女を信じているのに私は……」
体を縮こませて背を向けようとしましたが、彼女に優しく阻まれ、顔をつき合わせてしまいました。彼女はコツンと額を触れさせて、笑いながら私の頬を両手で包みます。
「浮気だってすぐ思われたのは、ちょっとショックかな……でも、それでも傍にいたいって言ってくれたのは嬉しいよ。私はず〜っとマヨイさんが一番だけど、変わらず傍にいてね」
「ヒィ……ち、近いですぅ……」
「お詫びのキスしてくれないと退かない」
言い出すと譲らないのは重々承知していますから、無駄な抵抗はせず、一瞬触れるだけのキスをしました。そうすると途端に安堵してしまって、思わず彼女を強く抱きしめてしまいました。
彼女の甘い髪の香りや柔らかな身体が、やはりどうしようもなく愛おしく、中々離す気になれませんでした。それでも、彼女は嫌な顔一つせずに私を抱き返してくれたのです。
「大丈夫、大好きだよ」
「はい……私も、愛しています……心から」
どれほど私が醜くとも、彼女の純粋で真っ直ぐな愛を信じないことより彼女に不誠実なことはありません。それは痛いほど理解しています。
けれど、わかっていてもどこかで信じきれないのは、彼女に愛されることが抱えきれないほど幸福だからというだけなのです。
ですからどうか時間をください、この幸福を素直に噛み締められるようになるまでの時間を……あともう少し。