キス
脚本を渡されたとき、私、どんな顔をしていただろう。今思えばどうしてあのとき役を引き受けてしまったのだろう。考えれば考えるほど私は決定的に過ちを犯しているに違いなくて、けれどそれが今さら取り返しのつかないことだというのも痛いほど理解できた。
「あなた……キスシーンだけは本当に下っ手くそですね〜〜〜!」
「殴っていいですか?」
「顔はやめてください!」
腹が立つほど整った顔を、今ばかりは殴り飛ばしてやりたかった。練習も大詰めになり本番があと二週間後となったにもかかわらず、私は中々キスシーンを上手く演じることができなかった。
ベッドのふちに腰かけ、相手とキスをして、そのままベッドに寝かされる……そして暗転、というシーン。長いこと付き合っている恋人同士の慣れたじゃれ合い、みたいな感じの設定なのに、私が見るからに体を強ばらせて緊張するせいでうまくいかない。今までキスシーンなんて何とも思わなかったのに、相手と――日々樹さんと顔が近づくだけでぎこちなくなってしまう。
「そんなに緊張しなくても。とって食べたりしませんよ」
「知ってます、そんなの知ってますけど」
「けど?」
「……ごめんなさい、うまく、できなくて」
うつむいて拳を握り締める。隣に座ったままの日々樹さんは、黙って私を見つめていた。
昔からお芝居が好きだった。初めて舞台に立ったとき、初めて演劇をしたとき、これほど楽しいことがあるのかと驚愕した。無論、好きだからこそつらいときもあったけれど、ひとつ自分のできないことや足りないところを見つけるたびに必死に前に進んできた。
……だからこそ、こんな意味のわからない感情のせいで舞台で醜態を晒すことがどうしようもなく情けなく感じられた。この人じゃなければ何にも思わないのに。どうして彼の紫の瞳に見つめられると、その瞬間にぴったり被っていたはずの仮面が溶けてしまうのだろう。
「……まぁ、今日は一旦このくらいで切り上げましょうか」
「あ、はい……」
「今日、この後はお暇ですか? よろしければ少しお話しましょう」
「だ、いじょうぶ、です」
もやもやと晴れない気持ちのまま、彼に促されて稽古は解散し、そのあと二人で稽古場近くにある少し広めの公園に足を踏み入れた。
人のいない公園のなか、ポツンと街灯に照らされたベンチに隣同士腰掛ける。彼が隣に座るなんて演技の中でもそれ以外でも今までにたくさんあったはずなのに、なぜだか私だけぎこちない。
「……何を話すんですか」
「ええ、何から話しましょうか。恋人らしく恋バナでもします?」
「いや恋人じゃな……ん? 恋人同士は恋バナしませんよね?」
「それもそうですねぇ。どんな話をするんでしょう?」
隣に座る彼は、珍しく真剣に腕を組み考え込んでいる。その口ぶりから察するに、彼も恋人というものをもったことがないらしい。演技の中ではあんなにそれらしいのに、本当は恋人が何を話すのかすら実感としては知らないだなんて、なんだかちぐはぐだ。
「ふふ、日々樹さんでもわかんないこととかあるんだ」
「勿論。わからないことだらけで毎日楽しいですよ、わからないことがあるということはそれだけ新たな発見の可能性があるということですから」
「前向きですね……でもその気持ちはわからないでもないです。演技のなかでもできないことがあると逆に燃えるっていうか、まだ成長できるって思えるっていうか」
「そうでしょうそうでしょう! いえね、あなたがそういうひとだとわかっていたので、今はわからないんですよ。あなたがどうしてそんなに落ち込んでしまっているのか……或いは何故、私にだけは上手く恋人を演じることが難しいのかが」
……ああ、心配されているのか。と、気付くと途端に心が重くなった。ひざの上に置いた手で手遊びをしながら視線を落とし、地面をとぼとぼと歩く蟻をぼんやりと見つめた。
「私もわからなくて困ってます。でもあなたが……日々樹さんが何か普通じゃないんじゃないですか? だって私あなたに見つめられると……いや、ごめんなさい、なんだろわかんない。日々樹さんがかっこいいから緊張するのかな、なんて」
ぐだぐだになりながらも口を動かすと、不意に左手に彼の右手が重ねられた。反射的に顔を上げて日々樹さんのほうを見ると、彼の右手が私の頬に添えられ、そのまま顔が近づいて、
「……ん、」
唇が重なった。唇が離れても、彼は距離をとらずに私をまっすぐ見つめていた。
「や、ごめんなさい、ちょっと」
「待ってください」
顔が赤くなってしまう前に距離を取ろうと、顔を背けようとしたけれど呆気なく阻まれてしまった。辛うじて目線だけを外し、頑なに彼を見ないまま下唇を噛みしめる。
「あぁもう……もうやだ、こんなんじゃ……せっかくあなたと同じ舞台に立てるのに、こんな下手くそなままなんて……こんなことなら最初から役を断っておけばよかったのに」
「なにを」
激しく脈打つままの心臓から、絞り出すように懺悔のような弱音を吐き出した。けれど彼に無理やり顔を上げさせられ透き通った瞳に見つめられたそのとき、一瞬、心臓が真っ白になって止まってしまったような気がした。
「あなたはそうやって内省するばかりで、ちっとも私のことを見てくださらない」
「……そんなこと……」
「ちゃんと見てください、わかりませんか? 私はあなたとのキスシーンでは演技をしていないんです。あのシーンだけはあなた自身のことを見つめているんです」
彼の真剣な言葉を聞いて、歪なパズルのピースがぴったりとはまったような気がした。どうしてあのシーンだけ仮面が溶かされてしまうのか、きっとそれは彼が仮面を外していたからなのだ。
あの瞬間、きっと私たちはいつも私たちそのものになってしまっていた。だから役の通りに慣れたじゃれ合いにはならなかった。それだけなんだ。
「…………なら、演技じゃないキスに慣れるまで一緒に練習してください」
まだ少しぎこちなく、彼の手に自分の手を重ねた。そうして何度目かももうわからないキスをする。
ただ、不安でも緊張でもない、砂糖菓子のように甘い愛おしさだけは初めてのものだった。
「あなた……キスシーンだけは本当に下っ手くそですね〜〜〜!」
「殴っていいですか?」
「顔はやめてください!」
腹が立つほど整った顔を、今ばかりは殴り飛ばしてやりたかった。練習も大詰めになり本番があと二週間後となったにもかかわらず、私は中々キスシーンを上手く演じることができなかった。
ベッドのふちに腰かけ、相手とキスをして、そのままベッドに寝かされる……そして暗転、というシーン。長いこと付き合っている恋人同士の慣れたじゃれ合い、みたいな感じの設定なのに、私が見るからに体を強ばらせて緊張するせいでうまくいかない。今までキスシーンなんて何とも思わなかったのに、相手と――日々樹さんと顔が近づくだけでぎこちなくなってしまう。
「そんなに緊張しなくても。とって食べたりしませんよ」
「知ってます、そんなの知ってますけど」
「けど?」
「……ごめんなさい、うまく、できなくて」
うつむいて拳を握り締める。隣に座ったままの日々樹さんは、黙って私を見つめていた。
昔からお芝居が好きだった。初めて舞台に立ったとき、初めて演劇をしたとき、これほど楽しいことがあるのかと驚愕した。無論、好きだからこそつらいときもあったけれど、ひとつ自分のできないことや足りないところを見つけるたびに必死に前に進んできた。
……だからこそ、こんな意味のわからない感情のせいで舞台で醜態を晒すことがどうしようもなく情けなく感じられた。この人じゃなければ何にも思わないのに。どうして彼の紫の瞳に見つめられると、その瞬間にぴったり被っていたはずの仮面が溶けてしまうのだろう。
「……まぁ、今日は一旦このくらいで切り上げましょうか」
「あ、はい……」
「今日、この後はお暇ですか? よろしければ少しお話しましょう」
「だ、いじょうぶ、です」
もやもやと晴れない気持ちのまま、彼に促されて稽古は解散し、そのあと二人で稽古場近くにある少し広めの公園に足を踏み入れた。
人のいない公園のなか、ポツンと街灯に照らされたベンチに隣同士腰掛ける。彼が隣に座るなんて演技の中でもそれ以外でも今までにたくさんあったはずなのに、なぜだか私だけぎこちない。
「……何を話すんですか」
「ええ、何から話しましょうか。恋人らしく恋バナでもします?」
「いや恋人じゃな……ん? 恋人同士は恋バナしませんよね?」
「それもそうですねぇ。どんな話をするんでしょう?」
隣に座る彼は、珍しく真剣に腕を組み考え込んでいる。その口ぶりから察するに、彼も恋人というものをもったことがないらしい。演技の中ではあんなにそれらしいのに、本当は恋人が何を話すのかすら実感としては知らないだなんて、なんだかちぐはぐだ。
「ふふ、日々樹さんでもわかんないこととかあるんだ」
「勿論。わからないことだらけで毎日楽しいですよ、わからないことがあるということはそれだけ新たな発見の可能性があるということですから」
「前向きですね……でもその気持ちはわからないでもないです。演技のなかでもできないことがあると逆に燃えるっていうか、まだ成長できるって思えるっていうか」
「そうでしょうそうでしょう! いえね、あなたがそういうひとだとわかっていたので、今はわからないんですよ。あなたがどうしてそんなに落ち込んでしまっているのか……或いは何故、私にだけは上手く恋人を演じることが難しいのかが」
……ああ、心配されているのか。と、気付くと途端に心が重くなった。ひざの上に置いた手で手遊びをしながら視線を落とし、地面をとぼとぼと歩く蟻をぼんやりと見つめた。
「私もわからなくて困ってます。でもあなたが……日々樹さんが何か普通じゃないんじゃないですか? だって私あなたに見つめられると……いや、ごめんなさい、なんだろわかんない。日々樹さんがかっこいいから緊張するのかな、なんて」
ぐだぐだになりながらも口を動かすと、不意に左手に彼の右手が重ねられた。反射的に顔を上げて日々樹さんのほうを見ると、彼の右手が私の頬に添えられ、そのまま顔が近づいて、
「……ん、」
唇が重なった。唇が離れても、彼は距離をとらずに私をまっすぐ見つめていた。
「や、ごめんなさい、ちょっと」
「待ってください」
顔が赤くなってしまう前に距離を取ろうと、顔を背けようとしたけれど呆気なく阻まれてしまった。辛うじて目線だけを外し、頑なに彼を見ないまま下唇を噛みしめる。
「あぁもう……もうやだ、こんなんじゃ……せっかくあなたと同じ舞台に立てるのに、こんな下手くそなままなんて……こんなことなら最初から役を断っておけばよかったのに」
「なにを」
激しく脈打つままの心臓から、絞り出すように懺悔のような弱音を吐き出した。けれど彼に無理やり顔を上げさせられ透き通った瞳に見つめられたそのとき、一瞬、心臓が真っ白になって止まってしまったような気がした。
「あなたはそうやって内省するばかりで、ちっとも私のことを見てくださらない」
「……そんなこと……」
「ちゃんと見てください、わかりませんか? 私はあなたとのキスシーンでは演技をしていないんです。あのシーンだけはあなた自身のことを見つめているんです」
彼の真剣な言葉を聞いて、歪なパズルのピースがぴったりとはまったような気がした。どうしてあのシーンだけ仮面が溶かされてしまうのか、きっとそれは彼が仮面を外していたからなのだ。
あの瞬間、きっと私たちはいつも私たちそのものになってしまっていた。だから役の通りに慣れたじゃれ合いにはならなかった。それだけなんだ。
「…………なら、演技じゃないキスに慣れるまで一緒に練習してください」
まだ少しぎこちなく、彼の手に自分の手を重ねた。そうして何度目かももうわからないキスをする。
ただ、不安でも緊張でもない、砂糖菓子のように甘い愛おしさだけは初めてのものだった。