真っ白なキャンバスを見たとき、それを自分の色に彩ってしまいたいと思う人間もいれば、そうでない人間もいる。俺はどちらかといえば後者だ。綺麗なものは綺麗なままに、ありのままを慈しみたい。

 イギリス経験論者のジョン・ロックは、かつて人間の魂を何も記載されていない一枚の白紙にたとえた。生まれながらに人間の心は真っ白な紙であるとすれば、さまざまな経験を通じてその紙に観念という名の文字がつづられるのだ。

経験論そのものを肯定する意図はないが、なるほど、そうだとすれば俺はやはり他者のもつ紙に何かを書き加えたいとは思えない。

「……えっと、何の話?」
「うむ、じゃからつまり、おぬしのきれいな肌に痕を残すのは気が進まぬのじゃ」

ベッドのうえで半裸の男女がふたりで向かい合っているというのに、滔々と小難しい言い訳をするさまは何となくちぐはぐで滑稽だ。

「残すったって、すぐ消えるんだよ? そんな大層なもんじゃないでしょ」
「うう……でも暫くは残るじゃろ」
「そんなにやなの?」
「嫌じゃ!」

 彼女曰く、首すじか胸もとか、どこでもいいのでキスマークをつけてほしいらしい。しかしせっかくきれいな肌に痕を残すのが、個人的にはどうしても嫌だった。

「キスマークって、良い感じに言っておるけどただの青タンじゃよ? 内出血なんじゃよ? そんなのDVと変わらぬじゃろ!」
「いや変わるよ! 確かにただの内出血だけど、零がつけてくれるっていうのが特別なの、だってなんか……心も体も全部零のって感じがして嬉しいじゃんか」
「うぐぐ」

可愛いおねだりに早くも揺らぎそうになった決心をなんとか持ち直し、彼女の身体を抱き寄せる。

「…………すぐ消えるとしても、傷はつけたくない、のじゃ」
「……も〜、わかったわかった。そんなに嫌だって思わなかったから……でも私が零につけるのはいい?」
「うむ、もちろんじゃ。あっでもなるべく目立たぬところで」
「わかってるって」

 少し身体を離して、彼女は俺の肩口を指先でつうとなぞった。胸板をなぞり、ちらとこちらを見上げる。くすりと嬉しそうに微笑むと、彼女は柔いくちびるを当てて、ちゅう、とまるで吸血鬼が血を吸うように肌に吸い付いた。

「ん、……よし。ついた」
「うむ」

彼女が離れると、胸もとに小さなキスマークが残った。なんとなく擽ったいような、嬉しいような気がしたが、言葉にすると「なら私にもして」と言われそうだから黙っておいた。

 やっぱり彼女の肌に痕を残したくないという思いに変わりはないが、俺はきっとこのキスマークを見るたびに彼女を思い出してにやけてしまうんだろう。そう思うと、次は彼女のわがままも聞いて痕を残してやったほうがいいのかもしれない。それで彼女が同じように喜ぶのなら。