前後の記憶はあまりない。ただ、深く考えることもなしに目の前にいる彼女の胸ぐらを掴みあげた。拳を握り締める。内容もわからないまま声を荒らげて彼女を怒鳴りつけ、握った拳を振り上げた。

 ――と、そこでビクンと腕が動いて目が覚めた。ドクドクと速まっている心音と、びっしょり汗でぬれた身体をそのままに、重い溜息を吐く。

(夢か……)

安堵のような疲労のような、いずれにせよ気分がいいとは言いがたい。薄暗い部屋のなか、壁にかけた時計を見るともう正午を回ったころだった。

 水でも飲もう、と体を起こしてスリッパを履き、寝室を出る。するとふんわりと香ばしい匂いが鼻腔をついた。ふらふら匂いに誘われるままキッチンへ向かえば、ちょうどフライパンに卵を落とした彼女がこちらを見た。

「おはよ。ふふ、ひどい顔」
「……ゆうべは…………泊まったんじゃったっけ」

いまいち昨晩のことを思い出せない。もやのかかった意識のまま、彼女を後ろから抱き竦め肩口に顔をうずめる。肌のもっちりした柔らかさも、頬をくすぐる髪の細さも、心地良い体温も、夢よりずっと確からしい。

……夢でなければあんなこと、俺が彼女に手をあげるなんてこと、あるはずがないのだ。

「覚えてないの?」
「え……っと、覚えてない」
「そっか」
「待て、なんかあったのか」

 慌てて顔を上げて彼女の肩を掴み、振り向かせる。らしくなく焦った俺を見て、彼女は少し驚いたように目を見開き、それからくすくすと笑った。

「も〜、何にもないよ。ほら、お水飲んで向こうで待ってて。もうちょっとでご飯できるから」
「うむ……」

水を汲んだコップを持たされ、キッチンを追い出される。鼻歌を歌いながら軽食を準備する様子をしばらく見つめていたが、大人しく言われたとおりにダイニングへ向かった。

 カーテンをそっと捲って外を見ると、雨が降っていた。ぼんやりと窓を打つ雨粒を見ながら、少しずつゆうべのことを思い出す。……確か仕事で疲れて帰って来て、オフの前日だからとついついいつもより多く酒を呑んでしまったのだ。

それから……夢であってほしいところだが、べそべそ泣きながら彼女に電話をして、今すぐ会いたいとかなんとかふざけたことをねだってしまったような記憶が微かにある。

 無言でコップをテーブルに置く。飲みかけの水に微かに映った自分の顔は情けなく赤らんでいた。そうだ、変な酔い方をして彼女に電話をかけたから、彼女は朝からわざわざ雨のなか家まで来てくれたのだ。

恋人として付き合い始めてはや一年、一度も彼女の前であんなふうに悪酔いしたことはなかったというのに。それどころか格好悪いところは極力見せないよう気をつけていたのに。

「お待たせ〜、零? どしたの、顔まっかだよ」
「いや……その、昨晩は……すまんかったの、情けないところを見せて……」
「あ、思い出したんだ。あはは、全然情けなくはないよ。初めて甘えられたからびっくりしたけど可愛かったし」
「かわ……うぅ、零ちゃんお嫁に行けない……」

 促されるままテーブルにつき、彼女が食事を並べるのを見つめる。すると何気なく、子どもをあやすように頭をポンポンと撫でられた。

「じゃあお嫁にもらってあげる。飲みものはコーヒーでいい?」
「うむ、ありがとう。……ちょっとキュンとしちゃったのが悔しいんじゃけど」
「ふふ、仕返ししていいよ」
「よし、任せておくれ」

ガタッと席を立ち、湯が沸くのを待っている彼女に近付く。その細い腕を掴んだとき、不意に夢で見た情景がフラッシュバックした。

 上機嫌そうに微笑みを浮かべる彼女の丸い瞳が俺を映す。ぞわ、と背すじの裏側がくすぐられるような衝動を感じた。

「……零?」

鈴を転がすような声でようやく我にかえる。何か言おうとしたところで給湯器がカチッと音を立てた。誤魔化すように彼女の頬にキスをして、手を離した。

「コーヒーは我輩が持っていくから、向こうで待っていておくれ」
「あ、そう? ありがと」

背伸びをしてお返しにと俺の頬にキスをした彼女は、屈託のない笑顔を見せてダイニングへ戻った。

 今は夢じゃない。言い訳のしようもない胸の裏側の衝動を落ち着かせ、軽く頭を振る。夢は深層心理をうつしだすとどこかで聞きかじったことがある。もしそうだとしたら、この衝動は……と、言葉にしてしまうことすらおぞましい。雨で気温は低いというのに、俺の額にはうっすらと冷や汗が滲んでいた。