――重い沈黙が鼓膜に張りつくので、ふと部屋のなかに時計がないことに気付いた。時計の秒針の音も外を走る車の音も何も聞こえないような閉鎖された空間だから、いつもより早い自分の心音がうるさいほどに身体に響く。手は微かに震えているし、呼吸さえ努めていつもどおりにしようとして、それでもぎこちないままだった。ベッドのふちに腰掛けたまま手遊びをして自分の指を見下ろしていると、長い髪を乾かし終えたらしい彼がバスローブ姿で奥から戻ってきた。

 物音につい顔をあげて彼を見てしまったけれど、途端に心臓を跳ね上げた私とは対照的に、彼はにっこりと綺麗な笑みを浮かべてみせた。そして自然な流れで私の隣に腰を下ろし、その横髪を耳にかけて私の顔を覗き込む。

「お待たせ致しました! 心の準備は出来ましたか?」
「……もう、いくら時間をもらっても心の準備なんかできっこない、ってことはわかった」
「おやおや。……本当によろしいのですか? 今ならまだ、引き返せますよ」
「うん……いいよ。初めてだから怖いだけで、嫌とかじゃないし……よろしくお願いします」

膝のうえでギュッと拳を握り締めると、渉は熱い手のひらで私の拳を包んだ。それから私の腰にもう片方の手を回し、引き寄せ、一瞬触れるだけのキスをしてくれた。

 キスなんてもう何回もしたのに、やっぱりいつもよりずっと緊張してしまう。自分でもわかるくらい肩に力が入っていた。ふと、手を包んでいた渉の手が離れて、私の肩を押す。されるがままにベッドに横たわれば渉が上にまたがった。ぱさりと長い髪が落ちてきて、彼の顔に影を落とす。

 どきどきしながら黙って下唇を噛んでいると、渉は私の首筋にそっと触れた。すす、と指先で皮膚の上のなぞられるだけで、どうしてだか背筋がぞくぞくした。彼の指はそのまま鎖骨に触れて、まるで高価なプレゼントの包装を外すときのような慎重さでバスローブをはだけさせた。そしてとうとうその手が胸に触れたとき、思わず甘い声が唇から漏れてしまった。

「あっ、」
「すみません!」
「え?」

とんでもない勢いで謝って私の上から飛び退いた渉を見て、思わず緊張も雰囲気も忘れて素に戻る。少し身体を起こして彼を見れば、さっきまでは影になって見えなかった顔がかつてないほど真っ赤になっていた。

「……渉?」
「あっいえ! なんでもありませんよ、続けましょう」
「いや、…………もしかして渉も緊張してるの?」
「いえいえそんなまさか!」

 反射的に誤魔化そうとしているけれど、彼の様子がおかしいのは明白だ。咎めるようにじっと彼を見つめれば、彼は観念したようにしゅんと肩を落とす。

「…………すみません。もっと完璧にエスコートする予定だったのですが……せっかく予習までしたというのに、」
「予習?」
「その……色々見まして、」
「ふふっ、あ、そうだったんだ」

珍しい表情をしながら、渉はとぼとぼとベッドに戻ってくる。上半身を起こして彼の隣に座り直し、なんとなくその頭を撫でた。

「ですが貴女に実際に触れるとなると……なんというか、その……罪悪感と高揚感と性的欲求がごちゃまぜになってしまって……すみません、情けないところをお見せしてしまいましたね」

 割と本気で落ち込んでいるらしい彼を見ていると、なんだか怒られてしょんぼりしている大型犬を見ているようで胸がじんわり温かくなった。私が笑って彼の手を握ると、彼はまだ申し訳なさげな表情のままで私を見た。

「私は、渉も私と同じように緊張してるんだってわかって嬉しいよ」
「……失望しないのですか?」
「逆に、私はこんなにガチガチに緊張してるんだけど、渉は失望したの?」
「まさか、そんなこと」
「うん。私も同じ。……お互い探り探りだけど、ちょっとずつ慣れていこう?」

渉は、まだほんのり赤い顔で雪が溶けるように微笑んだ。そしておずおずと慣れない手つきで私を抱き寄せると、私よりも高鳴った鼓動が伝わってきた。

「えぇ……そうですね。よろしくお願いします」

 噛み締めるようにそう言って、彼はもう一度私をベッドに押し倒す。余裕なさげな表情も少し震えた指先も、なぜだかいつもの余裕そうで格好いい様子より愛おしく、愛らしく思えた。

「……渉のかっこ悪いとこも情けないとこも、ちゃんと全部見せて」

内緒話をするようにひっそりと囁くと、渉はなんとも言えない顔をしてから、ちょっと不器用に笑った。

「お恥ずかしいかぎりですが。……貴女にだけ、特別ですよ」

 ――なんて、結局全部終わってみれば、情けないところなんて見られた気がしないけれど。