あなたしか知らない
最初に見たのは、真っ白な天井だった。床に臥せたまま凝り固まった首を動かして次に見たのは、ちょうどベッドサイドにあった花瓶に花を生けている、綺麗な男の姿だった。
私がぼんやり彼のほうを見つめていると、男は不意に私へ視線を移し、それからその綺麗な目を大きく見開いた。
「……っお、おはよう……」
「…………」
私はうまく声を出すことができず、ただ乾いた呼気を吐くだけに留まった。彼は数秒、私を見つめたあと、ナースコールを押して看護師を呼んでくれた。
軽い記憶喪失ですね、と、医師は呆気なくそう言った。聞けば私は職場である事務所で、誰もいない深夜、何を思ったか睡眠薬を過剰摂取し自殺を試みたのだという。泣きながら私にすがりついた両親のことは、不思議と覚えていた。ただ、自殺未遂したその日から半年くらいまでの間にかんする記憶がすっぽり抜け落ちていた。
だから私の心には希死念慮なんてひとかけらも残っていなかった。
「おっ、今日もちゃんと起きてえらいなあ!」
「斑さん」
私が意識を取り戻してから退院までの二週間、彼は毎日私の病室を訪れた。彼は毎日違う花を持って来て、花瓶に生けて、私と一時間話をする。私が忘れてしまった日々の話を。
「昨日はどこまで話したかなあ」
「えぇと、斑さんが私を呼びつけたところまで」
「そうだったそうだった、じゃあ今日は俺の用事の内容からかあ。……はは、なんだかちょっと緊張するなあ」
「緊張?」
斑さんはパイプ椅子に脚を開いて腰掛け、そのひざの上に両ひじを置き、猫背のまま自分の顔の前で両手を握り合わせていた。そして絡ませた指をそわそわと動かしながら、ちょっとだけ困ったように微笑む。私が首を傾げて彼の言葉を待っていると、彼はごくりと唾を飲み込んでから、ようやく口を開いた。
「……俺は君のことが好きだ。もちろん、特別な意味で。だからもし許してくれるなら、傍にいてほしい。……と、あの日、俺は君に言った」
「え……、あ、あぁ……? えっと、それで私はなんて……?」
「うん、こちらこそよろしくお願いしますって返してくれたんだが……覚えてないよなあ。すまない、言うかどうか少し迷ったんだが、一応、と思ってなあ」
「あぁいや、うん、ありがとう。……あはは、全然覚えてないな〜……でも、てことは斑さんとは恋人同士だったんだね」
そうだなあ、と彼は苦笑した。きっととても嬉しかっただろうはずなのに、聞かされる思い出はやはり他人事のようだった。それは今日の話だけではなく、彼が話してくれる思い出のほとんどすべてがそうだった。だからなんとなく、もう記憶なんて戻らないのかもしれない、と思っていた。
彼はしばらくの沈黙のあと、決心したように声をあげた。
「……君が望まないのなら、この関係はなかったことにしても構わないと思っている。俺は君を大事に思っているし、なるべく君の意思を尊重したい。ピンとこないかもしれないが、君はどうしたい?」
まだ驚いたままの頭で彼の言葉をなんとか咀嚼して理解し終えると、次にこれまでの彼のことが思い出された。
目を覚ましてから今日まで、毎日花を持って会いに来てくれた彼のことを、私は改めて何度も何度も思い出した。
そうして心の底から湧き上がったあたたかいものが、きっと私が忘れてしまった愛情なのだと、そう思った。
「私は……まだ何にも思い出せないし、もしかすると斑さんが接してきた私とはちょっと違ってるかもしれないけど……でも退院してからも、毎日貴方に会いたいなって、思うかな。だからその……恋人のままがいい、です」
「……ああ、ありがとう。良かった」
――そう言って微笑んだ彼の瞳はどこか冷たく、けれど確かな熱のようなものを孕んでいるように見えた。結局、退院してから一年が経っても、抜け落ちた私の記憶が戻ることはなかった。
私がぼんやり彼のほうを見つめていると、男は不意に私へ視線を移し、それからその綺麗な目を大きく見開いた。
「……っお、おはよう……」
「…………」
私はうまく声を出すことができず、ただ乾いた呼気を吐くだけに留まった。彼は数秒、私を見つめたあと、ナースコールを押して看護師を呼んでくれた。
軽い記憶喪失ですね、と、医師は呆気なくそう言った。聞けば私は職場である事務所で、誰もいない深夜、何を思ったか睡眠薬を過剰摂取し自殺を試みたのだという。泣きながら私にすがりついた両親のことは、不思議と覚えていた。ただ、自殺未遂したその日から半年くらいまでの間にかんする記憶がすっぽり抜け落ちていた。
だから私の心には希死念慮なんてひとかけらも残っていなかった。
「おっ、今日もちゃんと起きてえらいなあ!」
「斑さん」
私が意識を取り戻してから退院までの二週間、彼は毎日私の病室を訪れた。彼は毎日違う花を持って来て、花瓶に生けて、私と一時間話をする。私が忘れてしまった日々の話を。
「昨日はどこまで話したかなあ」
「えぇと、斑さんが私を呼びつけたところまで」
「そうだったそうだった、じゃあ今日は俺の用事の内容からかあ。……はは、なんだかちょっと緊張するなあ」
「緊張?」
斑さんはパイプ椅子に脚を開いて腰掛け、そのひざの上に両ひじを置き、猫背のまま自分の顔の前で両手を握り合わせていた。そして絡ませた指をそわそわと動かしながら、ちょっとだけ困ったように微笑む。私が首を傾げて彼の言葉を待っていると、彼はごくりと唾を飲み込んでから、ようやく口を開いた。
「……俺は君のことが好きだ。もちろん、特別な意味で。だからもし許してくれるなら、傍にいてほしい。……と、あの日、俺は君に言った」
「え……、あ、あぁ……? えっと、それで私はなんて……?」
「うん、こちらこそよろしくお願いしますって返してくれたんだが……覚えてないよなあ。すまない、言うかどうか少し迷ったんだが、一応、と思ってなあ」
「あぁいや、うん、ありがとう。……あはは、全然覚えてないな〜……でも、てことは斑さんとは恋人同士だったんだね」
そうだなあ、と彼は苦笑した。きっととても嬉しかっただろうはずなのに、聞かされる思い出はやはり他人事のようだった。それは今日の話だけではなく、彼が話してくれる思い出のほとんどすべてがそうだった。だからなんとなく、もう記憶なんて戻らないのかもしれない、と思っていた。
彼はしばらくの沈黙のあと、決心したように声をあげた。
「……君が望まないのなら、この関係はなかったことにしても構わないと思っている。俺は君を大事に思っているし、なるべく君の意思を尊重したい。ピンとこないかもしれないが、君はどうしたい?」
まだ驚いたままの頭で彼の言葉をなんとか咀嚼して理解し終えると、次にこれまでの彼のことが思い出された。
目を覚ましてから今日まで、毎日花を持って会いに来てくれた彼のことを、私は改めて何度も何度も思い出した。
そうして心の底から湧き上がったあたたかいものが、きっと私が忘れてしまった愛情なのだと、そう思った。
「私は……まだ何にも思い出せないし、もしかすると斑さんが接してきた私とはちょっと違ってるかもしれないけど……でも退院してからも、毎日貴方に会いたいなって、思うかな。だからその……恋人のままがいい、です」
「……ああ、ありがとう。良かった」
――そう言って微笑んだ彼の瞳はどこか冷たく、けれど確かな熱のようなものを孕んでいるように見えた。結局、退院してから一年が経っても、抜け落ちた私の記憶が戻ることはなかった。