手をのばして
真っ暗な部屋のなか、宇宙みたいなベッドのうえで私の目の前でぼんやり光る、彼の白い背中。静かに呼吸を繰り返す目の前の星に、触れてみたくなった。もぞ、と布団から出した手を彼の方へ伸ばして、触れる寸前で、やめた。もう一度目を閉じて、星のない真っ暗で寂しい宇宙のなかに戻る。
やがて朝が差し込む。いつの間にか寝返りをうって仰向けに寝ている彼を見て、私はなんだか泣いてしまいたくなった。薄明かりの部屋のなかでいちばん綺麗な彼のことを、これ以上見ていたくなくなった。
(帰ろ……)
そっと布団から身体を滑り出させて、床に投げ捨てられていた下着を手繰り寄せる。冷たくなった布をまとって洗面所へ行く。鏡にうつる私はなんだかみじめだった。
リビングに置いていた鞄を持ってコートを羽織ってから、ふと、スマホを寝室に置いてきたことに気がついた。そうっと音を立てないように寝室に戻りスマホを回収する。彼が目を覚まさないうちに早く帰ろう、彼をもう見ないように……と、思っていたのに、うっかりベッドに寝ているままの彼を見てしまった。
見つめたまま、しばらく経った。彼といると、彼を見つめていると、たちまち時間が溶けて消えてしまう。真っ白な空間のなかでただ、彼だけが、私の全部を支配してしまう。けれどきっと「逆もまた然り」ではない。ようやく時計の秒針が聞こえるようになると、私は鞄を持ち直して踵を返した。
「……今日は何もないと言っておらんかったかや」
不意に彼の掠れた声が鼓膜を揺らして、思わず飛び上がりそうなほど驚いた。宿題を忘れてきた小学生みたいに、私は突っ立ったまま俯いて黙り込んでしまう。頭が真っ白になる。
「……か、帰る、私」
「なぜ?」
「なぜって」
振り返れないまま、言葉に詰まってしまう。でも理由なんてちゃんとわかっていた。私は自分がみじめだったのだ。彼の寝顔やその美しい身体を見ているだけで、本当にみじめで仕方なかった。
「おいで」
「……」
真っ白になった頭は彼の言葉に素直に従ってしまう。振り返って彼を見てしまうと、もはや彼を振り切って帰ろうなどとは少しも思えなかった。大人しく鞄を下ろして、コートを脱ぎ、ベッドに戻る。彼は両手を広げて私を迎えた。
「何もそんなに慌てて帰らずともよいじゃろう。お互い今日はオフなんじゃし、のんびり過ごそう」
「……」
彼は私を抱き締めたまま、私のつむじにキスをする。私は息苦しさに眉をひそめ、かすかに喉をひらいた。
「帰りたい……」
「せめて理由を聞かせてくれんかの」
「私、……私、その、すごく、いやなの」
「なにが」
「…………私ばっかり、こんなにあなたでいっぱいになってるのが」
「はあ?」
心臓は焦って全身に血をめぐらせている。彼は私の言葉を聞くなり、身体を離して私の顔を見た。私はこのまま彼に失望されてしまうのがどうしようもなく恐ろしくて、ほとんど反射的に拙い言い訳を口にする。
「ごめんなさい、違うの、このままでいいんだけど……恋人になりたいとかじゃないよ、だから」
「ん? えっいや、色々問いただしたいところではあるがちょっと待って、我輩たち付き合ってなかったの……?」
「……どういうこと?」
「どういうこともなにも、我輩は……その、おぬしの恋人のつもりでおったんじゃけど」
彼の言い分を、私はすぐには理解できなかった。けれどしばらく考え込んで、どうもお互いすれ違っていたらしいことだけはなんとか理解した。そして同時に、また心臓が痛いほど脈打ち始めた。
「私、いつかあなたに捨てられるって思ってたの。あなたは私のことなんかなんとも思ってないって、だからこうして体を重ねることはあっても、愛してほしいなんて言ったら面倒に思われると思って、だから……それがすごく悲しかったの」
私が浅い呼吸を震わせながらたどたどしくそう言うと、彼はきゅっとくちびるを噛みしめて、ぎゅっと私の体を抱きしめた。
「すまんかったのう、寂しい思いをさせてしまって。……それに思えば、忙しさにかまけておぬしとじっくり話をする機会も逃し続けておった。もしまだ愛想を尽かさずいてくれるなら、もっとたくさん、話をしよう。そうして我輩がどれだけおぬしを深く愛しておるか、知り、受けとめておくれ」
彼の胸板に顔を埋めたまま、私は息もうまくできずただただ泣きじゃくった。何度、彼が私に愛を囁くという夢を見たかわからない。けれど今まで見たどんなに都合のいい夢より、今目の前にある現実のほうがずっと幸せに思えた。息を吸えば、彼のやさしい香りがする。全身に彼の体温が分け与えられている。
「じゃあ、今日はずっとこうしててもいい?」
「もちろんじゃよ」
あんなに遠かった彼の背も、今は私の腕のなかにあった。
やがて朝が差し込む。いつの間にか寝返りをうって仰向けに寝ている彼を見て、私はなんだか泣いてしまいたくなった。薄明かりの部屋のなかでいちばん綺麗な彼のことを、これ以上見ていたくなくなった。
(帰ろ……)
そっと布団から身体を滑り出させて、床に投げ捨てられていた下着を手繰り寄せる。冷たくなった布をまとって洗面所へ行く。鏡にうつる私はなんだかみじめだった。
リビングに置いていた鞄を持ってコートを羽織ってから、ふと、スマホを寝室に置いてきたことに気がついた。そうっと音を立てないように寝室に戻りスマホを回収する。彼が目を覚まさないうちに早く帰ろう、彼をもう見ないように……と、思っていたのに、うっかりベッドに寝ているままの彼を見てしまった。
見つめたまま、しばらく経った。彼といると、彼を見つめていると、たちまち時間が溶けて消えてしまう。真っ白な空間のなかでただ、彼だけが、私の全部を支配してしまう。けれどきっと「逆もまた然り」ではない。ようやく時計の秒針が聞こえるようになると、私は鞄を持ち直して踵を返した。
「……今日は何もないと言っておらんかったかや」
不意に彼の掠れた声が鼓膜を揺らして、思わず飛び上がりそうなほど驚いた。宿題を忘れてきた小学生みたいに、私は突っ立ったまま俯いて黙り込んでしまう。頭が真っ白になる。
「……か、帰る、私」
「なぜ?」
「なぜって」
振り返れないまま、言葉に詰まってしまう。でも理由なんてちゃんとわかっていた。私は自分がみじめだったのだ。彼の寝顔やその美しい身体を見ているだけで、本当にみじめで仕方なかった。
「おいで」
「……」
真っ白になった頭は彼の言葉に素直に従ってしまう。振り返って彼を見てしまうと、もはや彼を振り切って帰ろうなどとは少しも思えなかった。大人しく鞄を下ろして、コートを脱ぎ、ベッドに戻る。彼は両手を広げて私を迎えた。
「何もそんなに慌てて帰らずともよいじゃろう。お互い今日はオフなんじゃし、のんびり過ごそう」
「……」
彼は私を抱き締めたまま、私のつむじにキスをする。私は息苦しさに眉をひそめ、かすかに喉をひらいた。
「帰りたい……」
「せめて理由を聞かせてくれんかの」
「私、……私、その、すごく、いやなの」
「なにが」
「…………私ばっかり、こんなにあなたでいっぱいになってるのが」
「はあ?」
心臓は焦って全身に血をめぐらせている。彼は私の言葉を聞くなり、身体を離して私の顔を見た。私はこのまま彼に失望されてしまうのがどうしようもなく恐ろしくて、ほとんど反射的に拙い言い訳を口にする。
「ごめんなさい、違うの、このままでいいんだけど……恋人になりたいとかじゃないよ、だから」
「ん? えっいや、色々問いただしたいところではあるがちょっと待って、我輩たち付き合ってなかったの……?」
「……どういうこと?」
「どういうこともなにも、我輩は……その、おぬしの恋人のつもりでおったんじゃけど」
彼の言い分を、私はすぐには理解できなかった。けれどしばらく考え込んで、どうもお互いすれ違っていたらしいことだけはなんとか理解した。そして同時に、また心臓が痛いほど脈打ち始めた。
「私、いつかあなたに捨てられるって思ってたの。あなたは私のことなんかなんとも思ってないって、だからこうして体を重ねることはあっても、愛してほしいなんて言ったら面倒に思われると思って、だから……それがすごく悲しかったの」
私が浅い呼吸を震わせながらたどたどしくそう言うと、彼はきゅっとくちびるを噛みしめて、ぎゅっと私の体を抱きしめた。
「すまんかったのう、寂しい思いをさせてしまって。……それに思えば、忙しさにかまけておぬしとじっくり話をする機会も逃し続けておった。もしまだ愛想を尽かさずいてくれるなら、もっとたくさん、話をしよう。そうして我輩がどれだけおぬしを深く愛しておるか、知り、受けとめておくれ」
彼の胸板に顔を埋めたまま、私は息もうまくできずただただ泣きじゃくった。何度、彼が私に愛を囁くという夢を見たかわからない。けれど今まで見たどんなに都合のいい夢より、今目の前にある現実のほうがずっと幸せに思えた。息を吸えば、彼のやさしい香りがする。全身に彼の体温が分け与えられている。
「じゃあ、今日はずっとこうしててもいい?」
「もちろんじゃよ」
あんなに遠かった彼の背も、今は私の腕のなかにあった。