言葉はいらない
彼女が目の前であんなに泣いたのは、あのときが最初で最後だったかもしれない。歌姫だとか天使だなんて祭り上げられた末に、初めての武道館ライブの直後、彼女は楽屋で喉を焼かれて声を失った。
ライブの熱気にあてられて彼女の楽屋へ行くと、彼女はうずくまって喉を抑え泣いていた。隣にはペットボトルが転がっていて、慌てて彼女に駆け寄ると彼女は真っ青な顔で僕を見た。はくはくと口を動かして、その美しい細い喉は掠れた空気の音だけを鳴らす。
犯人は彼女と同じ事務所の人間だった。ずっと彼女のそばで彼女の才能に嫉妬し続け、とうとう耐えられなくなってしまったらしい。
彼女は引退を表明し、暫くはマスコミなんかを避けるため僕の家に留まることになった。なったというか、僕があんまり彼女が心配だったから、無理にそうしてもらったのだ。
「なまえちゃん」
彼女の名前を呼んでも、返事はない。ぼうっと庭の椅子に腰掛けていた彼女は、ちらりと僕を見て、微かに笑顔をうかべた。
「またこんなところにいたんだね、身体を冷やすよ。お薬は飲んだ?」
彼女の肩にブランケットをかけると、彼女はこくこくと頷いた。よしよしと頭を撫でれば、少しだけ彼女の肩の力が抜ける。
「……なまえちゃんの好きなマカロンがあるよ。お茶をいれて、おやつにしようか」
以前、差し入れにマカロンを持って行くと飛んで喜んでくれた。「嬉しい、ありがとうございます。英智さん」なんて目を輝かせてはしゃいでいた。
けれど目の前の彼女は俯いて、ゆるりと首を横に振った。ご飯もあまり食べないし、おやつを用意してもあまり食べない。喉が痛むのかと聞いたところ、そうではないらしかった。
「──……は、……」
掠れた息が、虚しく彼女の喉を通り抜けた。彼女は悲しそうに喉を抑えて、それからもう一度僕を見上げた。どうしたのかな、と思っていると、彼女は僕の手を取って、手のひらに指で文字を書き始めた。
『ハグしてもいい?』
「……うん。勿論だよ、おいで」
手を広げ腰を屈めると、彼女は椅子に座ったまま僕の首に抱き着いた。とくん、とくんと穏やかで優しい心音がする。
「なまえちゃん、ごめんね。何もしてあげられなくて」
僕がそう言うと、彼女は身体を離してじっと僕を見つめた。心を覗き込むようにその瞳を見つめる。そうすると彼女はふっと優しく微笑んで、触れるだけのキスをしてきた。
一瞬、時間が止まったかのような錯覚に陥る。唇を離すと、彼女はまた僕の手を取った。
『そばにいてくれるのが、いちばんうれしいです』
「……僕は、ずっときみのそばにいさせてほしいよ」
ぽろりと本音を零すと、彼女は少し驚いたように顔を上げて僕を見つめる。
「なまえちゃん、僕、きみを幸せにしたいんだ」
そっとその頬に触れるけれど、彼女はまだよくわからないと言うふうなきょとんとした顔をしている。
「もしかすると、窮屈かもしれない。でもきっと幸せにしてみせるから……きみをもう傷付けられたくないから」
その場に傅き、今度は僕が彼女の手を取り、その甲に唇を寄せた。
「僕と、結婚してくれませんか」
僕がそう声に出すと、彼女は目を丸くして顔を赤く染めた。その瞳に微かに涙が滲む。
「今すぐじゃなくていいんだ。でももしいつか許してくれるなら、」
僕が全部言い終わる前に、彼女は僕にキスをした。そして目に涙を溜めたまま、幸せそうに笑って頷いてくれたのだ。
「……絶対幸せにするよ。約束する。この選択もこの先の未来も、絶対に後悔させない」
うん、と彼女は無言で頷く。ああ、もどかしい。どれだけ言葉にしても上手く伝わらない気がする。こんなに大きな決意と心を、どうして言葉で表せるだろう。
言葉は脱ぎ捨てて、ただ彼女を抱き締めた。声にしなくても伝わることを信じて。彼女は黙って、僕の背に手を回し強く抱き返してくれた。ああ、これだけで充分なのだ、きっと。
ライブの熱気にあてられて彼女の楽屋へ行くと、彼女はうずくまって喉を抑え泣いていた。隣にはペットボトルが転がっていて、慌てて彼女に駆け寄ると彼女は真っ青な顔で僕を見た。はくはくと口を動かして、その美しい細い喉は掠れた空気の音だけを鳴らす。
犯人は彼女と同じ事務所の人間だった。ずっと彼女のそばで彼女の才能に嫉妬し続け、とうとう耐えられなくなってしまったらしい。
彼女は引退を表明し、暫くはマスコミなんかを避けるため僕の家に留まることになった。なったというか、僕があんまり彼女が心配だったから、無理にそうしてもらったのだ。
「なまえちゃん」
彼女の名前を呼んでも、返事はない。ぼうっと庭の椅子に腰掛けていた彼女は、ちらりと僕を見て、微かに笑顔をうかべた。
「またこんなところにいたんだね、身体を冷やすよ。お薬は飲んだ?」
彼女の肩にブランケットをかけると、彼女はこくこくと頷いた。よしよしと頭を撫でれば、少しだけ彼女の肩の力が抜ける。
「……なまえちゃんの好きなマカロンがあるよ。お茶をいれて、おやつにしようか」
以前、差し入れにマカロンを持って行くと飛んで喜んでくれた。「嬉しい、ありがとうございます。英智さん」なんて目を輝かせてはしゃいでいた。
けれど目の前の彼女は俯いて、ゆるりと首を横に振った。ご飯もあまり食べないし、おやつを用意してもあまり食べない。喉が痛むのかと聞いたところ、そうではないらしかった。
「──……は、……」
掠れた息が、虚しく彼女の喉を通り抜けた。彼女は悲しそうに喉を抑えて、それからもう一度僕を見上げた。どうしたのかな、と思っていると、彼女は僕の手を取って、手のひらに指で文字を書き始めた。
『ハグしてもいい?』
「……うん。勿論だよ、おいで」
手を広げ腰を屈めると、彼女は椅子に座ったまま僕の首に抱き着いた。とくん、とくんと穏やかで優しい心音がする。
「なまえちゃん、ごめんね。何もしてあげられなくて」
僕がそう言うと、彼女は身体を離してじっと僕を見つめた。心を覗き込むようにその瞳を見つめる。そうすると彼女はふっと優しく微笑んで、触れるだけのキスをしてきた。
一瞬、時間が止まったかのような錯覚に陥る。唇を離すと、彼女はまた僕の手を取った。
『そばにいてくれるのが、いちばんうれしいです』
「……僕は、ずっときみのそばにいさせてほしいよ」
ぽろりと本音を零すと、彼女は少し驚いたように顔を上げて僕を見つめる。
「なまえちゃん、僕、きみを幸せにしたいんだ」
そっとその頬に触れるけれど、彼女はまだよくわからないと言うふうなきょとんとした顔をしている。
「もしかすると、窮屈かもしれない。でもきっと幸せにしてみせるから……きみをもう傷付けられたくないから」
その場に傅き、今度は僕が彼女の手を取り、その甲に唇を寄せた。
「僕と、結婚してくれませんか」
僕がそう声に出すと、彼女は目を丸くして顔を赤く染めた。その瞳に微かに涙が滲む。
「今すぐじゃなくていいんだ。でももしいつか許してくれるなら、」
僕が全部言い終わる前に、彼女は僕にキスをした。そして目に涙を溜めたまま、幸せそうに笑って頷いてくれたのだ。
「……絶対幸せにするよ。約束する。この選択もこの先の未来も、絶対に後悔させない」
うん、と彼女は無言で頷く。ああ、もどかしい。どれだけ言葉にしても上手く伝わらない気がする。こんなに大きな決意と心を、どうして言葉で表せるだろう。
言葉は脱ぎ捨てて、ただ彼女を抱き締めた。声にしなくても伝わることを信じて。彼女は黙って、僕の背に手を回し強く抱き返してくれた。ああ、これだけで充分なのだ、きっと。