斜陽
耳鳴りがする。ベッドに横たわったまま幽かに顔を顰めた私をよそに、彼は私の制服のブラウスをはだけさせた。するすると魔法のようにボタンが外されていく。私は耳鳴りが頭をきゅうと締めつけるのを感じながら、彼の若草色の柔らかな髪を見つめた。
「きみって本当に静かだね」
ふと、耳鳴りの向こうから彼の声がした。私のほうは、ずっと意識の内側に音がしていたものだから、静かと言われると少し違和感があった。でも私が彼に対して特に何か言葉をかけることがないことにかんしては、自覚があった。
「何かお話しようか?」
「ううん? 別に話してほしいとは言ってないね」
「うん。だってむしろ、なんにも話したくないからこんなことするんでしょ」
彼の指先にうながされるままブラウスと肌着と下着を脱ぐ。彼は私の裸を見て、くしゃりと不器用に笑った。そうして彼の大きく華奢な手が、生を確かめるように私の胸もとに触れる。
「きみって本当に、……」
彼は何か続きを言おうとして、途中でやめてしまった。何を言おうとしたのかはわからない。けれど、無理に探ろうとも言ってほしいとも思わなかった。彼の手はいつものくせで、私の右胸の下側を撫でた。
彼が私を初めて抱いたのは確か三ヶ月前、夏の暑い日のことだった。私は初めての行為に驚き、痛みに悶えたけれど、泣くことだけはしなかった。それは彼に嫌われるのが怖いとかではなくて、ただ単に彼のほうが今にも泣きそうな、ちょうど迷子の子どものような顔をしていたからというだけだった。彼は死に場所を探しているようにも見えた。
「あ」
私がふと声をあげると、彼はすぐに手を止めて私の顔を見た。珍しく目が合って、つい笑ってしまう。
「どうしたの」
「ううん、ちょっとね」
「言って。ぼく、そういう隠しごとされるのが一番きらいなの。思わせぶりに声まであげたくせに隠しちゃうなんて許せないね」
彼は冷たい声で咎めるようにそう言った。とはいえ本当にしようもないことだから、むしろこんな雰囲気になるとかえって言い出しづらいな、とは思ったが、これ以上渋ってもいけないと思い渋々口を開いた。
「前に読んだ本のこと、思い出しただけなの。本当にそれだけ。気にしないで」
「ふうん? どんな本?」
「斜陽っていう小説」
「ああ……太宰の。どうして今思い出すの?」
「あなたがあの小説のひとみたいだから。なんていうか、生まれも心も貴族なんだけど、自分から汚れようとしてるっていうか……?」
そろりそろりと、私は地雷原を裸足で歩くような心地でそんな馬鹿なことを言った。彼は私の胸から手を離し、そのままその手で私の頬を撫でた。どうやら地雷を踏むことはなかったようだ。
「きみって不気味なくらいぼくのこと知ってるけど、でも、これにかんしてはちょっと違うんだよね」
「これって?」
「ぼくがきみに触れること」
「何が違うの?」
私が無知な少女みたいな呑気さでそう尋ねれば、彼はすっとその紫色の瞳を細めた。目を細めても口もとは少しも笑っていなかったから、私は思わずその表情にぞっとしてしまった。くちびるが薄くひらかれる。
「きみに触れても汚れられないからね」
「……汚れられないならどうしてこんなことするの?」
「ふふ、わからない?」
「全然」
「そう」
短く相槌をうって、彼は珍しく上機嫌そうに笑った。そしてついと自身が身にまとっていたカッターシャツや肌着を脱ぎ、ベッドの下に放り捨てた。私たちはお互い、上半身だけはもう何も身につけていないというなんだかちぐはぐな格好で向かい合った。彼は再びその手のひらを私の頬にあてがう。
「きみの前では丸裸になっちゃうからね。肩書きも、在るべき姿も背負うべきものもないし、それになによりきみはぼくに何も求めない。ただ受け入れてくれるだけ。それがぼくには心地良いんだよね」
慈しむように、彼の親指のはらが私の目の下を撫でた。もうおしゃべりをする気はないのだろう、私の言葉も待たずに彼は私の身体に触れた。素肌のうえを滑る指先は、何かを探し求めているようだった。
さしずめ私は彼にとっての胎なのだろう。彼はきっと帰る場所を探している。それは誰もいない無音の場所、けれどひとりぼっちではなく母親の心音が聞こえる場所、唯一安心できる羊水の奥底。彼はいつかまた、この薄汚れた世界にうみなおされるのだろうか。傾いた太陽が一度沈んだあとにまた昇ってくるように。
……そういう日が早くくれば良いのにと、私はそっと自分の腹を撫で、祈るようにまつ毛を伏せた。
「きみって本当に静かだね」
ふと、耳鳴りの向こうから彼の声がした。私のほうは、ずっと意識の内側に音がしていたものだから、静かと言われると少し違和感があった。でも私が彼に対して特に何か言葉をかけることがないことにかんしては、自覚があった。
「何かお話しようか?」
「ううん? 別に話してほしいとは言ってないね」
「うん。だってむしろ、なんにも話したくないからこんなことするんでしょ」
彼の指先にうながされるままブラウスと肌着と下着を脱ぐ。彼は私の裸を見て、くしゃりと不器用に笑った。そうして彼の大きく華奢な手が、生を確かめるように私の胸もとに触れる。
「きみって本当に、……」
彼は何か続きを言おうとして、途中でやめてしまった。何を言おうとしたのかはわからない。けれど、無理に探ろうとも言ってほしいとも思わなかった。彼の手はいつものくせで、私の右胸の下側を撫でた。
彼が私を初めて抱いたのは確か三ヶ月前、夏の暑い日のことだった。私は初めての行為に驚き、痛みに悶えたけれど、泣くことだけはしなかった。それは彼に嫌われるのが怖いとかではなくて、ただ単に彼のほうが今にも泣きそうな、ちょうど迷子の子どものような顔をしていたからというだけだった。彼は死に場所を探しているようにも見えた。
「あ」
私がふと声をあげると、彼はすぐに手を止めて私の顔を見た。珍しく目が合って、つい笑ってしまう。
「どうしたの」
「ううん、ちょっとね」
「言って。ぼく、そういう隠しごとされるのが一番きらいなの。思わせぶりに声まであげたくせに隠しちゃうなんて許せないね」
彼は冷たい声で咎めるようにそう言った。とはいえ本当にしようもないことだから、むしろこんな雰囲気になるとかえって言い出しづらいな、とは思ったが、これ以上渋ってもいけないと思い渋々口を開いた。
「前に読んだ本のこと、思い出しただけなの。本当にそれだけ。気にしないで」
「ふうん? どんな本?」
「斜陽っていう小説」
「ああ……太宰の。どうして今思い出すの?」
「あなたがあの小説のひとみたいだから。なんていうか、生まれも心も貴族なんだけど、自分から汚れようとしてるっていうか……?」
そろりそろりと、私は地雷原を裸足で歩くような心地でそんな馬鹿なことを言った。彼は私の胸から手を離し、そのままその手で私の頬を撫でた。どうやら地雷を踏むことはなかったようだ。
「きみって不気味なくらいぼくのこと知ってるけど、でも、これにかんしてはちょっと違うんだよね」
「これって?」
「ぼくがきみに触れること」
「何が違うの?」
私が無知な少女みたいな呑気さでそう尋ねれば、彼はすっとその紫色の瞳を細めた。目を細めても口もとは少しも笑っていなかったから、私は思わずその表情にぞっとしてしまった。くちびるが薄くひらかれる。
「きみに触れても汚れられないからね」
「……汚れられないならどうしてこんなことするの?」
「ふふ、わからない?」
「全然」
「そう」
短く相槌をうって、彼は珍しく上機嫌そうに笑った。そしてついと自身が身にまとっていたカッターシャツや肌着を脱ぎ、ベッドの下に放り捨てた。私たちはお互い、上半身だけはもう何も身につけていないというなんだかちぐはぐな格好で向かい合った。彼は再びその手のひらを私の頬にあてがう。
「きみの前では丸裸になっちゃうからね。肩書きも、在るべき姿も背負うべきものもないし、それになによりきみはぼくに何も求めない。ただ受け入れてくれるだけ。それがぼくには心地良いんだよね」
慈しむように、彼の親指のはらが私の目の下を撫でた。もうおしゃべりをする気はないのだろう、私の言葉も待たずに彼は私の身体に触れた。素肌のうえを滑る指先は、何かを探し求めているようだった。
さしずめ私は彼にとっての胎なのだろう。彼はきっと帰る場所を探している。それは誰もいない無音の場所、けれどひとりぼっちではなく母親の心音が聞こえる場所、唯一安心できる羊水の奥底。彼はいつかまた、この薄汚れた世界にうみなおされるのだろうか。傾いた太陽が一度沈んだあとにまた昇ってくるように。
……そういう日が早くくれば良いのにと、私はそっと自分の腹を撫で、祈るようにまつ毛を伏せた。