なかなか寝つけない夜に思い出してしまうのは、大抵いつも同じ人だ。春の青々と茂る草原のような髪を、その髪に不意に触れてしまったときの絹のような柔らかさを、優しく世界を写し込むアメジストのような瞳の深さを、常に弧を描き微笑みをたずさえている女神のような口もとを、次々と鮮明に思い起こす。

そうして残酷なほどいつもと変わらない自室の天井を見つめ、長く息を吐き切る。目蓋を閉じても彼の姿が鮮明さを増すばかりで、やっぱりちっとも眠れそうにない。

 ――ふと、枕元に寝かせていたスマートフォンがブブと震えた。こんな時間に誰だと手探りでスマートフォンを手繰り寄せると、画面を見たその瞬間に着信画面へ切り替わった。驚いて手を滑らせ、発信者をろくに確認できないまま顔の上に落としてしまう。

「あっ、起きてたの? こんばんは! あれ、もしもしなまえちゃん、聞こえてる?」
「っはい……もしもし、日和くん?」
「うんうん、日和くんだね♪ 何してたの?」
「え? えっと……今から寝るところかな」

そっか、と言って彼は数秒黙り込んだ。私は端末越しにこの鼓動が伝わってしまわないか不安になりながら、こくりと軽く唾を呑み込み、口を開く。声が震えないようにと思うと途端に息がしづらくなった。

「日和くんは、何してたの?」

少しぎこちなさを孕んだ短い問いかけに、彼はいつもどおりの快活な声で答える。

「ぼくも同じ、今から寝ようかと思ってたんだよね」

 呆気ない答えを聞いて私は曖昧な相槌をうった。てっきり何か火急の用があって電話を掛けてきたのかと思っていた。そうでなければ間違いか、いずれにせよ彼がこんなふうに「特にこれといった用はないけれど」という態度であることは、私をひどく戸惑わせた。

 何かあったの……と尋ねることは、ひょっとすると「何も用がないなら掛けてくるな」と裏返して受け取られるのではないかと思い、はばかられた。けれどだからといって他愛のない会話を切り出すことも、彼は望んでいないような気がした。私が色々と会話の糸口を思案していると、不意に彼のほうから話を切り出した。

「寝ようかと思ったんだけど、きみの声がどうしても聞きたくなっちゃって」
「……私?」

 思いもよらない言葉に、間抜けな声で聞き返してしまう。電話越しの彼は穏やかに、ゆるやかにこんなことを語った。

「ぼく、きみの声をすごく気に入ってるんだよね。だからきみの声はちゃんと覚えているんだけど……たまにこういう静かな夜は、頭のなかに置いてある記憶を再生するだけじゃなくって、きみの声が空気を震わせて鼓膜に溶け込んでくるのを聞きたくて聞きたくて仕方なくなっちゃうんだよね。……ぼくの言ってること、わかる?」

私はまごついて、しばらく言葉にもなりきらない声を漏らすことしかできなかった。けれど苦しいほどに喜び舞い上がる心臓を何とか抑えて、小さく、「うん」と返事をした。

「私……私も、日和くんの声が聞きたかったの。ううん、私は声だけじゃなくて日和くんに会いたい……な〜、なんて……」

途中から段々恥ずかしくなってきて、最後は誤魔化すように声をフェードアウトさせてしまった。彼はくすくす笑うと真昼の太陽みたいな声で話す。

「うんうん、そうだね! ぼくもきみに会いたいねっ、でももう寝る時間だし……きっと夢に会いに来てね。待っててあげる」
「へ……、あ、うん……っ」
「じゃあ、遅い時間にありがとう。おやすみなさい、また夢のなかでね」
「うん、おやすみなさい」

 私が返事をすると、あっさり通話は打ち切られた。仕事を終えて少し熱くなったスマートフォンの、真っ暗な画面をじっと見つめる。ぼんやり映り込む自分の顔の色は、いつもより赤みがかっているように見えた。

 通話を終えてしばらくしてからようやく正しい呼吸の仕方を思い出し、何度か深呼吸をしてみた。それでもなかなか呼吸は正常に戻らず、心拍数もいつもの二倍くらいはあった。

頭のなかでは彼の滑らかな声がずっと繰り返し再生されている。そしてその声が紡いだ言葉たちの、裏側に見え隠れする意図を、ひたすら勘繰ってしまう。電気を消して布団を被っても、その夜はなかなか寝つけなかった。

けれど眠りについたあと、夢のなかで約束どおり彼に会えた――ような気がした。