それに気がついたのは、生まれてからもう何年も経ってからのことだった。つい先日まで乙女のドレスのようにふっくらとした花々を咲かせてきた桜の木は、もうすっかり花が散って、遠目から見れば薄桃色より青々とした深緑のほうが多く見える。

それだけ、本当にただそれだけのことなら当たり前のように知っていた。桜が花をつけている盛りの期間はあっという間に過ぎゆくことなどはもちろん知っていた。

 私が初めて気づいたのは、花弁は散り落ちたあと、押し花のように路面にピッタリとはりつくのだということだった。

ユラユラと細雪のように悠然と宙を舞った花弁は、風に吹かれて路面を旅しながら、やがて人々の足や車輪によって路面に刻印される。

泥や汚れのついた姿だったけれど、普段の味気ない道路がモザイク画のように彩られているのがなんとも愉快で、私はずっと項垂れたまま歩いていた。

「あんまり下を向いていると危ないよ」

ふと、春の妖精のような穏やかな声が鼓膜に溶け込んできた。顔を上げれば、ゆったりと微笑を浮かべている英智くんと思いのほか近くで目が合った。

私が彼の名前を呼ぼうと口を開いたら、音を発するより前に彼の手が私の肩を抱き寄せた。つい先ほどまで私のいた場所を、自転車が風のように走り抜ける。

「……英智くん」
「ふふ、驚いた? 駅までなら一緒に歩こう」
「うん、ぜひ」

 彼の胸もとに手を当てて、はにかみながらも小さく頷く。彼のさらりと透き通った金髪がつむじの辺りをくすぐった。

「随分夢中だったようだけれど、何か探していたのかな」
「ううん、なんでもないの。ごめんなさい、ありがとう」

どきどきと速くなってしまった鼓動が伝わってしまわないよう、するりと彼の腕を抜け出す。すかさず彼は私の手を掴まえ、自然な動きで指を絡め合った。

「何か見ていたんじゃないのかい? 教えてほしいな」
「う〜ん……大したことじゃないんだよ。本当に……」
「構わないよ。君の見えてる世界のことならどんなに些細なことでも知りたいからね」

空のように蒼い瞳が、まるで好奇心旺盛な少年のように私をじっと見つめる。私はなんとなく気恥しさをおぼえつつ、ポツリポツリと桜に関する考えごとを彼に伝えようとした。

「桜って咲いてるときが一番綺麗だと思ってたけど、ほら、散ったあとは色んな人に踏まれて押し花みたいになるんだなって思って。なんの意図もない配置なんだけど、目を凝らしたら何かが浮かび上がってくるような気がしたの。……それで、足もとをずっと見てただけ」

 私がそう言い終えて笑ってみせると、彼は興味深そうな顔つきをして立ち止まり、足もとを見つめた。繋いだ手は依然としてそのまま、私は俯かずに黙って彼の伏せられた長い睫毛を見つめていた。

「ふぅん、なるほどね。押し花か、言われてみれば確かに」
「……でも、本当にそれだけなの。だからどうということは別になくて……ごめんね、つまらないこと言って」

気恥しさに耐えられなくなって、ついそんな謙遜のような遠慮を口にしてしまう。すると英智くんはふわりと微笑んだ。春の昼下がり、柔らかく暖かい陽光のようだった。

「つまらなくなんてないさ。こうやって君に新しい世界の見方を教えてもらえるのが、僕はとても嬉しいんだよ」
「そう……なの?」
「うん。君の見えてるもの、感じたこと、僕にだけもっともっと教えてほしいな」
「……うん、そうする。じゃあ英智くんもたくさん教えてね」
「もちろん」

 手を握り直し、改めてふたりで歩き始める。きっと私たちの見えてるものは何ひとつとして同じではないのだろう。だからこそそれを分かち合えるのが、生きるうえで最も大きな幸福なのだ。そんなこと、今まで何年も生きてきたくせにちっとも知らなかった。彼と出会って恋に落ちるまでは。