「ん……っまって、ちょっと待って」
「はい?」
オフが重なった日の前夜、寝室で読書をしていた彼女に近づき、私はそのくちびるにそっとキスをしました。それは情事に誘う際のお決まりの合図だったのです。彼女がそれを拒むことなどありませんでしたから、誘うというより始まりの合図と言っても過言ではないでしょう。しかし今夜、彼女は思いがけず私の胸板を押し返したのです。
「あの……暑いでしょ? 最近」
「ええ、まあ……窓を開けていれば涼しいくらいですが」
「そう、そうなの。冷房とかドライとかをつけるには早いけど、窓を開けてたら快適だよね。だから今も窓を開けてるの。意味わかる?」
 ゆら、と寝室のカーテンが夜風に揺られるのが視界の隅に見えました。なるほど、窓を開けているからにはあまり声を出せないので、今夜は遠慮しておきたいということなのでしょう。
「ふむ、窓を閉めて冷房をつけます? 扇風機を持ってきてもいいですが」
「ん〜……うん、いや……やだ、暑いの……。今日はやめとこうよ、ね?」
彼女はやんわりと私の肩を撫で、ねだるように言い聞かせるように私の目を見つめました。しかし私としても、どうしても譲りがたいときというものはあるのです。
「……わかりました。では今夜は別室で眠ることにしましょうか」
 私は聞き分けの良いふりをして、わざと低く冷たい声でそう言ってみました。
「えっ、どうして?」
彼女は予想通り目を丸くして私の手を掴みます。私は努めて真剣かつ寂しげな面持ちで、静かに答えました。
「こんな気持ちのまま同衾してしまったら、きっとあなたに触れてしまいますから。どうぞご容赦ください。それでは」
彼女の手をほどいて立ち上がると、すかさず彼女が体を起こして私の寝間着の裾を掴みました。そして留守番を言いつけられた幼子のような、切羽詰まって甘えた声で私を呼ぶのです。
「ま、待って、渉」
「どうして引き留めるんです、何をしてしまうかわかりませんよ」
「でも……」
 充分に沈黙を保ってから、私はようやく彼女に向き直り視線を合わせるように額を合わせました。不安げな瞳へ温かな眼差しを与えると、彼女はほんの少し安堵したような色を見せます。
「どうぞ選んでください。今宵はいかがいたしましょう?」
「意地悪……もうクーラーつける、から、ここにいて」
「喜んで……☆」
パッと笑顔に切り替え、改めて彼女にキスをしました。
 どんな声色で、どんな表情で、どんな言葉をどのくらいの間で発すれば彼女が首を縦に振るのか。そんなことはもはやわかりきっていることでした。彼女も何となくはそれを察しているのでしょう。私が譲らないと知ると、案外すんなり承諾してくれるのですから。

 くちびるを合わせたまま彼女の肩を押し、そっとベッドへ横たえました。舌を出して歯列をなぞり、愛らしい上顎の形を舌先で確かめます。彼女は未だにこの
感覚に慣れないらしく、必死に目を瞑って私の肩口を掴んでいました。そのいつまでもぎこちない姿がどれほど愛しいか、なかなか筆舌に尽くし難いものです。
「……あの、ずっと思ってたんだけど」
「どうしました?」
「渉がずっと余裕そうにニヤニヤしてるの、ちょっとなんか、むかつく」
「おやおや」
寝間着のボタンを外して脱がせる途中、彼女は気恥しさを紛らすようにわざとむすくれた顔をしました。
 ニヤニヤ……というのは確かに、愛する人に触れているわけですから顔が綻ぶのも当然でしょう。しかし余裕があるふうに見えているというのは、私が芯からの役者であるがゆえでしょうか。実のところ私は、彼女を目の前にしてしまうと余裕などとはまったくかけ離れた状態に達してしまうのです。彼女がそれを知らないでおいてくれることは幸いでした。
「そうですねぇ。余裕に関しては元々の性質というのもあるかもしれませんが、もしかすると男側と女側……つまり攻める側と受けて側との違いかもしれませんね。攻められるほうとしては、相手に翻弄されてしまうわけですから。予期せぬ感覚などに余裕が無くなるのも当然でしょうね」
 そんな話をしながら、私は彼女の喉元を撫で、そのまま指先を胸もとまでツウと下ろしました。彼女はそのかすかな感覚にさえ、びくりと肩を揺らしました。
「……っでも私ばっかり、やだ……はずかしい」
「何をおっしゃるんです」
「だって私ばっかり気持ちよくなって、なんか、なんかその……はしたないっていうか、ぁ」
彼女がそんな可愛らしいことをのたまうので、たまらなくなって胸の先を指で撫でてやりました。すると彼女が手で口もとを覆おうとしたので、すぐにその手を掴んでベッドに押しつけ、露わになった熱いくちびるへ軽いキスをしました。
「今さらですねぇ、セックスとははしたないものでしょう? それにお互いさまですよ」
「ぅ……♡ わ、渉は、そんなふうに見えないから……」
「フフ……見たいですか? はしたないところ」
柔らかな胸を軽く揉み、ちゅ、とリップ音を立てて乳首へキスをしてみました。彼女はぴくんと跳ねたあと、恐る恐るといったふうに小さく頷きました。
「良いでしょう、求められれば応えるのが役者というものですからね。……しかしセーフワードくらいは決めておきます?」
「えっ、痛いことするの?」
「いえ、そういうわけではありませんが……余裕がなくなってあなたに無理をさせるのも良くないでしょう? 何かご希望などあります?」
「ご希望ってセーフワードの? んっと……じゃあ『嫌い』で」
 至極真面目な表情で、とはいえ神妙な雰囲気はなくむしろ呼吸をするように平然と、彼女はその単語を指定しました。セーフワードというのは行為中絶対に言わないような言葉を指定するのが一般ですから、たとえば食べ物の名前や色の名前など、そういう行為とは無関係な言葉を指定なさるものだと思っていました。彼女にとってはその言葉が行為中絶対に言わない言葉なのだと思うと、なんだか胸のうちがむず痒いような感覚をおぼえます。
「本当に、つくづく可愛いひとですね」
「今そんな要素あった? んむ」
遮るようにくちびるを押し当て、左手で彼女の右手を絡め取りました。そして彼女の息継ぎが上手くいかないのも気にかけず、満足のいくまで舌で咥内を蹂躙します。彼女の脚の間へ膝を割り込ませ股へ押し当てて見れば、かすかにひんやりと濡れたような感触がしました。
「……っぷぁ、はあっ……は、……えぁ、?」
「可愛いですねぇ、息できてます?」
「でっ、……でき、てゅ」
「なら良しとしましょう」
 呂律も回らず必死に息をするしかできなくなった彼女の、紅潮した頬を両手で挟み込んで口に両の親指を突っ込みました。彼女は少し苦しそうに眉を寄せながらも私の指を噛まないよう口を開け、そしてそのせいで熱いよだれが口の端を伝ってくるのでした。真珠のように輝くそれを舐めとり、指についたものも軽く舐めると彼女はなんとも複雑そうな顔で私を見つめました。
「き、汚……、汚くない?」
「キスをするのと同じですよ」
「そ……っか」
さっさと彼女の意識が向く前に下着を脱がせ、ベッドの下へ放ってしまいました。くたりと力の入らないようすの白い脚を掴み、開かせ、じっとりと濡れた秘部へ指先を触れさせます。
「んぅ」
「……もう正直に言ってしまいますけど、良いですか?」
「な、なに?」
「私、あなたがこうして健気に素直に私を受け入れる準備をしているのを見るのがいっとう好きなんですよ」
 髪を耳にかけて静かに微笑むと、彼女は少し驚いたように目を丸くして、赤面しながら小さく口を開きました。
「全然知らなかった」
「フフ……見せないだけで、言わないだけで、私も存外普通の男なんですよ」
とろりと甘く濡れて私を誘う性器へ、彼女が拒むより先にくちをつけました。じゅる、とわざと音を立てて性器のふちを舌でなぞり、あふれてくる蜜をこくりと喉の奥へ流し込みます。
「きゃ、ッあ、!? やっ、だめだめっ、だめ! まって……そっそれやだっ、ひっ!?」
彼女はなんとか快感から逃げようと身を捩らせたり、私の頭に手をやったりしましたが、宣言通り私が満足のいくまでは決して離さずに愛撫を続けました。すると一際大きく彼女の身体が跳ね、彼女は快感を耐えるようにきゅうっと目を瞑りました。絶頂したのだと察すると、さすがにくちを離して身体を起こします。
「ふあ……、わた、る……っへ、変なイき方しちゃった、」
 産まれたての子鹿のように膝をがくがく震わせながら、彼女は甘えるように私の方へ手を伸ばします。その手を取って優しく身体を抱き寄せ、落ち着かせるべく頭を撫でてやりました。
「変、というと?」
「っと、なんか、も、もどってこな、……っなん、何にもしてないのに、今っ」
彼女の身体は過敏になり、ほんの少し肌を撫でただけでもびくりと跳ねてしまうほどでした。初めての感覚に混乱し半ばパニックになっている彼女は、その瞳を滲ませながらあろうことか私にすがりつきました。
「ふむ……では一度思いっきり達しておきましょうか」
「はっ?」
 傷つけないよう慎重に、すっかりほぐれた彼女の中へ中指をずぷと滑り込ませました。まだ浅いところで内側へ指を折り曲げ、指の腹でぐりぐりと内壁を擦り上げてやります。それと同時にまた酸素を奪うような口づけをし、空いた手では胸に触れました。
「ん、っんん、ん〜……っ!」
彼女はまたきゅうっと目を瞑って、がむしゃらに私の肩を掴みました。肩口に刺さる彼女の爪の痛みさえ、今はどうしようもなく愛おしく、ますます腹の奥が熱くなるばかりでした。きっとそれも、彼女の知るところではないのでしょう。
「……っは、ぁ……あ、っ渉、わた、る……」
「少しは落ち着きましたかね?」
 私が彼女の顔を覗き込んで尋ねると、彼女は今にも泣きそうな顔で私を見つめ返し、突然私の首もとへ抱きついてきました。
「わたる、っ渉〜……」
「おやまあ、どうしたんです、怖かったですか?」
赤子をあやすように背を撫でてみましたが、彼女は首を横に振ってますます私に抱きつく腕に力を込めました。
「わかんない、大好きなの、」
首にしっかり抱きついてしまっているせいで、彼女がどんな顔をしているのかはわかりませんでした。けれど重ね合った素肌から、彼女の心からあふれた多幸感が私にまで染み込んでくるようでした。
「……あ、」
 ふと、彼女は私が勃起してしまっていることに気づいて顔を上げました。そして恥じらうような瞳の奥に期待をちらつかせて、私をじっと見つめるのです。そして思いきって私のくちびるへキスをしてきました。
「あの……言ってほしいな、渉がどうしたいのか……」
私は一度ごくりと生唾を呑み込み、彼女の頬を撫でてからその瞳をまっすぐに見据えました。心臓の音がどくどくと体内に響いていました。
「あなたと繋がりたいです、あなたに私を受け入れてほしい、私のすべてを」
 彼女は幸せそうに満足げな笑顔を浮かべ、承諾の返事の代わりに可愛らしいキスを返してくれました。

 気がつけば室内は驚くほど暑く、ぽたりと汗が滴って彼女の汗と混じりあっていました。髪はじっとりと素肌にはりつき、息もすっかり上がってしまっています。ベッドに横たわったまま起き上がる力も何か言う力もなくぐったりしている彼女を見て、流石に限度というものがあったかと内心深く反省しました。
「大丈夫……ではありませんよね。すみません、私としたことがつい夢中になってしまいました」
私が彼女に話しかけると、彼女はゆっくりこちらへ視線を移し、それからふにゃりと糸がほどけるように笑いました。
「疲れたのは、まぁ、そうなんだけど。でも『嫌い』じゃないよ。渉がたくさん愛してくれてすごくうれしい」
「……敵いませんね」
 溜め息とともにそう呟き、彼女の額へそっとくちびるを寄せました。私も彼女へのおねだりについては心得ているつもりですが、逆もまた然り、彼女も私の心を射抜く方法を熟知しているのでしょう。そうして愛ゆえにお互いがお互いを翻弄することのなんと幸福なことでしょう。私が空調をつけて彼女へ視線を戻すと、彼女はもうすっかりくたびれてスヤスヤと眠りに落ちてしまっているのでした。