呼吸が浅くなる。網膜に映された情報が脳で処理されるのに、いつもより時間がかかる。身体が重い。目眩がする。

「……薬、薬飲んで、お茶……。お茶……」

ぼそぼそとうわ言のように今しなければならないことを呟きながら、廊下を歩く。ESビルの廊下はこんなに長かっただろうか。

長かろうが短かろうが、とにかく今は自販機まで辿り着かなければならない。自販機にさえ辿り着けば、あとはお茶を買って薬を飲んでハッピーエンドになるはずなのだ。もちろん鎮痛剤がこの痛みを抑えてくれるのには時間がかかるが、プラシーボでもなんでも良いからすぐに効くと思いこんだ方が幸せだ。

 みっともなくはならないようにゆっくり、一歩ずつパンプスで廊下のフローリングを踏み締めていく。あと少し、あと少し……あと少しだ、と生唾を飲んだところで突然、目の前が水色になった。

「こんにちはっ、あなたの日々樹渉です☆ あなたが欲しいのはこのあったか〜いお茶ですか? それともこちらの日々樹渉特製☆オリジナルドリンクでしょうか!」
「わた…………っ、ひ、日々樹さん」

私の視界を覆ってしまったのは、私の恋人であり、今は仕事仲間でもある渉だった。お互い仕事場では切り替えて接し合おうと約束したのだが、どうやら私の不調を見兼ねて気をつかってくれたらしい。彼の匂いがふわりと漂うと、ほんの少しだけ安心して肩の力が抜けてしまった。

「えっと……お茶、もらっていいですか?」
「ええどうぞ! ついでにコチラもどうぞ」
「わ、っカイロ、と鎮痛剤? ……もう、わざわざそんな……」

 貧血で朦朧とした頭をぼんやりと支配したのは、安堵でも感謝でもなく、情けなさと悲しさだった。彼に促されるまま鎮痛剤を流し込み、カイロを開けてお腹に当てる。私がいまいち上手く笑えずにいると、彼は珍しくぎこちない笑顔を作って小声で耳打ちしてきた。

「どうか、心配くらいはさせてください。公私混同はしませんけれど、私はいつでもあなたの恋人なんですから」

優しい囁きに思わず目頭がつんと熱くなる。泣きそうになるのを堪えて瞬きをし、彼の綺麗な瞳を見つめ素直に頷いた。

「うん、ありがと。あの……ひとつだけわがまま言ってもいい?」
「もちろんですよ」
「今日早めにやらなきゃいけないこと終わらせて帰るから、その、渉がもし良かったら……」
「ええ、一緒に帰りましょう。帰ったらゆっくり休みましょうね」

 すべて見透かしたように、渉はそう微笑んで私の頬を撫でた。思わず家で彼と接するときのようにその手に擦り寄って甘えてしまう。いけない、と我に返って私が後ずさると、彼もパッと表情を切り替えた。

「ではご機嫌よう……☆ 困ったときはいつでもお呼びください!」
「はい、ありがとうございます」

両手で包んだお茶のペットボトルやお腹に貼ったカイロがじんわりと身体を温め、痛みを和らげてくれる。それとは別に彼の残り香や手の感触が、心をすっぽり包み込んでくれるような気がするのだった。