漢字ふりがな 彼と初めて会ったのはいつだっただろう。思い出せないけれど幼い頃、利発そうな整った顔立ちよりもその一見優しげな瞳の奥に潜んだ冷たさが恐ろしく感ぜられたことだけは覚えている。

当然天祥院家のほうが立場は上だったから、私は躾られたとおり挨拶をしなければならなかったのだけれど、人見知りだったことも相俟って幼い私はついまごついてしまった。

そんな不躾なわたしに対して、当時、彼はお手本みたいに綺麗な笑みを浮かべ、私の手を取って挨拶をしてくれたのだ。まるで絵本に出てくる王子さまみたいだ、と、二番目に湧いた印象はそんな薄っぺらなものだった。

「紅茶でも淹れようか」

 長らくの沈黙のあと、彼はあのときみたいに優しく私に声をかけた。私は無意識に俯けていた顔を上げ、彼を見る。一体どんな顔をすれば良いのかわからなかった。空気が重くなるのが嫌で、かろうじて微笑を取り繕う。

「……ううん、今私たちがしなきゃいけないのは、いつもどおりにティータイムを楽しむことじゃないでしょ?」
「うん、そうだね。でも早すぎるかなとは、僕も思っているんだよ。そもそもそれ以前に君が望まないことはしたくない」

彼はため息まじりにそう言った。ソファのうえで隣同士腰掛けているにもかかわらず、彼は文字通り指一本私に触れなかった。私は膝のうえに握りこぶしをつくって、ずっと身体を強ばらせていた。

 跡取りについてのこと、婚姻についてのこと、全部以前からずっとねちねちとお互いの家の親族に言われ続けていたことだ。だからこそ彼はとうとう私を夜に自室へ招待したのだろう。決して美味しい紅茶を飲んで談笑するためじゃない。彼や私に課せられた義務のために、その最初の一歩を踏み出そうとしているのだ。

「…………私が望むとか望まないとか、そんなの……関係ないわ。みんな天祥院の血筋が途絶えるのが怖いんでしょ、安心させてあげなきゃ」
「君は天祥院家のために僕とセックスするの?」
「せ……っ、うん、えっと……その」
「いいよ。それなら今夜はやめておこう」
「えっ、英智さん」

彼が呆気なくソファから腰を上げたので、咄嗟にその手首を掴んだ。私を見下ろす彼の瞳はやっぱり奥に鋭い冷たさをもっている。

「怒ってるの?」

怖々と、震える声で尋ねる。彼は微かに目を細めて私の手をほどいた。

「そうだね」

 まさか素直に肯定されるとは思っていなくて、背筋がゾッとした。このまま彼を部屋から出しちゃいけないと思い、再び、今度はもっと強く彼の腕にすがりつく。

「待って、お願い。……座って」
「ふふ、君はおねだりだけは上手だね。いいよ、僕の機嫌を取ってくれるの?」
「意地悪言わないで……、その、誤解があるのなら解きたいの」
「誤解かな。君は僕と交わることを義務だと思っているんだろう?」

彼はソファに座り直して長い脚をすらりと組み、品定めをするように私を見据えた。柔和な声とは裏腹に刺々しい言葉にはいつまで経っても慣れない。

「義務だって思う側面があるのは、確かにそうだと思う。でもごめんなさい、それだけじゃないよ」
「なら後はなに? 教えてほしいな」
「…………恥ずかしくて言いづらいの、言いたくないわけじゃないけど、ただ本当に恥ずかしくて」
「うん。言ってごらん」

 上がる心拍数を落ち着けるように何度か深呼吸をしてから、改めてまっすぐ彼の瞳を見据えた。彼は心做しか愉しそうに微笑みながら私を見ている。

「英智さんのこと、本当に好きなの。愛してるから触れてほしいし、触れたいって思う……ちょっと、本当にほんのちょっとだけ、怖いけど」

私が緊張しながらもなんとかそう言い終えると、彼はやっと優しく笑って私の頬を撫でてくれた。その手つきの穏やかさに、ほっと胸を撫で下ろす。

「よくできました。僕も同じように思っているよ、愛しいから君に触れたい。君が気にしているのは子どもをつくるかどうかってことみたいだけど……どうだろうね、僕はまだもう少し、君とふたりきりのほうが良いんだけど」
「うん、私も……まだ母親になるなんて考えられないし」
「そうだよね。だからとりあえず、子どもをつくるのはもう少し後にしたいんだ」
「賛成です」

 私の頬を包む彼の手に自分の手を重ねる。このまま初夜になるのかと内心ドキドキしていたけれど、一旦保留になりそうだ……と、そう思ってちょっと安心していたところへ、彼がキスをしてくる。

「避妊具は用意しておいたから今夜は使っちゃおうか。それじゃ、そろそろベッドに移動してもいいかな」

不意打ちで近づいた蒼い瞳の奥には、今まで見たことのない熱が燻っていた。当然断るすべもなく、私はぎくしゃくしながら彼にエスコートされるのだった。