「あのときあなた、笑いすぎて吐いてましたよね。さすがの私も驚かされました!」
「……あー」

なんでもない思い出話に花を咲かせていたとき、印象強かったエピソードを話すと、彼女はなんだか曖昧な表情で私を見つめました。

「ごめん、いつだっけ? 全然思い出せない」
「おやまあ。ええと確か、去年の夏ごろですよ。疲れていたんでしょうねぇ、英智が言った駄洒落をあなたに伝えたらあなた、驚くほど笑ってしまって」

かなり特異な思い出だと自分では思っていたのですが、どうやら彼女はいまいち思い出せないらしく、誤魔化すように笑いました。

 最初は、そういう本当に些細なことだったのです。けれどまるで糸がほつれていくように、小さな穴は少しずつ少しずつ繊維を崩していってしまいました。

「あれ、今日だっけ、記念日……あれ? 何年目?」
「三年目ですよ、うっかりさんですね☆」

毎年祝っていた記念日を忘れてしまったこともありました。

「……えっと、ごめん。昨日何か言ってたっけ?」
「あぁ、都合がつくならデートでもとおっしゃっていましたけれど……顔色が悪いですよ。今日はお家で安静にしましょう」

前日言っていたことを、翌朝にはもう覚えていなかったこともありました。そして何より恐ろしく思えたのは、彼女が目を覚まして私を見たとき、一瞬、怯えるような或いは困惑するような表情を見せたことでした。

「……っあ、渉か……おはよ」
「どなたと間違われたんです?」
「誰でもないよ、違うの、ごめん私やっぱり……」

おかしいみたい、と、彼女は懺悔するようにその言葉を口からこぼしました。彼女の記憶能力はひどく衰え、普通なら思い出せるようなちょっとした記憶さえも思い出すことが難しくなってしまっていたのです。

 ほんの小さなほつれから広がった空虚は、いつの間にか彼女を満たし、彼女から私を奪い去ってしまったようでした。ふたりで紡いできた温かな記憶のブランケットはもはや彼女の手にはなく、彼女にはただ「何かが失われた」という漠然とした不安だけが残され、ほかには何も残っていませんでした。

「今はまだ、少し冷静になれば思い出せるの。でも渉のことなんにも思い出せなくなったら、って、最近よく不安になる」

ある日の夜、真っ暗な部屋のなかベッドのうえに寝そべって彼女はそう呟きました。私は手さぐりで彼女を探し、その手を強く握り締め、祈るように口を開きました。

「大丈夫ですよ。もしあなたが全部忘れてしまったら、また恋に落ちるところから始めましょう。何度でも振り向かせてみせますよ」
「……でも、じゃあ、今までの渉との思い出はなかったことになるの?」

 ず、と鼻をすする音がして、彼女が泣いているのだと気づきました。暗闇のなか彼女の輪郭を手繰りよせて抱きしめると、彼女は縋り付くように私の背に腕を回しました。

「いいえ。全部鮮明に私が覚えていますから。あなたが忘れるたびにすべて余すことなく伝えますよ」
「うん…………うん、ごめんね。ありがと」

何も見えない暗闇のなか、私は彼女の肩にブランケットを掛けてやりました。それが何度ほつれて失われてしまっても、きっとそのたびに縫い直して彼女を包んでみせましょう。私さえ覚えていれば、いつまでもそうしていられるにちがいないのですから……。