たまに、満員電車にギチギチに詰め込まれた状態で、ふと考えるときがある。日本における労働の実態とはもしかしてとんでもない地獄にほかならないのでは……と。

毎朝同じ時刻の電車に詰め込まれながら、まるで養豚場の豚が出荷されるときのように出社し、九時から夕方五時ごろまで──もちろんそれは運が良ければの話で、運が悪い場合は残業という追い地獄が待っているのだが──くたびれながら働き、また電車に揺られながら退勤する。家に帰れば翌日もまた出社するために、飯を食らい入浴を済ませて就寝する。

そんな毎日が、おそらく大抵は定年退職まで何十年も続くのだ。夏に聞く怪談話よりよほど恐ろしく感じるのは、私だけだろうか。

 けれどもちろん人生はそれだけではなくて、仕事がない日や連休、それからもちろん退勤後などの余暇にはたくさん楽しいことができる。そういうガス抜きの時間を大切にしたいし、パートナー兼社畜である彼にも大切にしてほしいと思う。

「……あ、もしもし。すみません、お忙しいなか……はい、はい。明日はオフで大丈夫そうですかね……はい。ありがとうございます、じゃあ明日は丸一日七種はいませんけれど……はい、よろしくお願いします。失礼します」

 電話の相手は巴日和さんだった。恋人である茨があんまりにも休暇をとらず、オフの日にまで家にパソコンを持ち帰って作業をするほどなので、心配になって巴さんに相談させてもらったのだ。すると彼はあっけらかんと「じゃあこの日は何がなんでもお休みにしてあげるね!」と言い、茨を出し抜いて強制的なオフの日をつくってくれたのだった。

 電話で聞いた話によると、無事にパソコンは取り上げることができたし、火急の仕事なんかもないらしく、今ちょうど早く帰れとビルから追い出したところだという。となると今から帰宅までおおよそ三十分といったところだろうか。

 私はひとり、踊るような心地で鼻歌を歌いながら、豪勢な夕食の準備をしていた。



 ──そうして三十分ほど経つと、少しイラついた様子の茨がガチャリと鍵を回して帰宅した。すぐに玄関まで駆けつけ、彼を迎える。

「おかえりなさい! ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」
「…………」

語尾にハートマークがつくくらい可愛らしく迎えたつもりだったけれど、茨はヘビでも見たような嫌そうな顔で私を見る。そして無言のまま靴を脱ぎ、すたすたと廊下を歩いていってしまう。

「ちょっと無視しないでよ、眼鏡割るよ?」
「アハハこれは失礼いたしました! いやあ自分の幻聴かと思いまして!」
「それでどれにするの?」
「はあ……強いて言うなら先にシャワーを済ませたいのですが」

 まだ続けるのかと言わんばかりの呆れた眼差しにもめげず、典型的な新婚夫婦のやりとりをなぞる。彼から鞄を受け取り、スーツのジャケットなども脱いでもらう。

「じゃあご飯あっためて待ってるね。ゆっくり浸かってきて」
「ああ、お湯張ったんですか。時間がかかりますしシャワーだけで良いんですが」
「だめだめ、浸かって百数えるまで出さないから! はい、行ってらっしゃい!」

彼を脱衣所に押し込み、少し背伸びをして頬にキスをしてからまたリビングへ戻った。ジャケットをかけて鞄を置き、夕食をセッティングしていく。

ストレス発散になるような何か、と色々考えたところ、やっぱりシンプルにお肉がいいかなと思い少し高めのお肉を買ってきたのだ。それを塩胡椒だけで焼いて食べちゃう。あとはサラダとお味噌汁と、私が食べたかっただけの鳥のたたきポン酢とかちょっとしたお刺身とか。とにかく満足できるようにと、あんまり食べ合わせとかは考えずに用意した。

 それらを綺麗にテーブルに並べ終えたころ、いつもより時間をかけた茨がお風呂から出てきた。彼は裸眼をきゅっとしかめて、テーブルのうえを注視する。

「今日、何かありました? 記念日……もまだのはずですが」
「今日は……というか今日明日は、茨を甘やかす日なの」
「はい? ……頼んでませんが?」
「頼まれなくてもするよ。何故なら私がそうしたいから♪ ほら座って座って」

茨をテーブルにつかせ、ほかほかつやつやのご飯をよそう。そう、これは全部私の勝手な自己満足にすぎない。それでもたまには恋人を甘やかしたくなってしまうのは、もう仕方のないことだ。

「さ、食べよっか。あっそうそうお酒も買っちゃったんだよね」

お茶碗を並べたあとにワインや果実酒や缶ビールなども並べ、ようやく彼の向かいに腰掛ける。彼は眼鏡をかけて、何故か顰め面でこちらを見据えていた。

「あれ、怒ってらっしゃる?」
「怒ってはいませんが……随分突拍子がないなと思いまして」
「ふふ、そりゃあサプライズだからね」
「まぁたまには良いでしょう、ここまで準備してくださったことですしね」

 なるほど、照れているらしい……と察すると急に口もとがゆるんでしまった。にやにやと笑う私を見て、茨は嫌そうに眉を顰める。

「いやぁ、いつも楽しそうで何よりであります!」
「いつもじゃないよ、茨が可愛くて楽しいだけ」

私が両手を胸の前で合わせると、それにあわせて茨も手を合わせた。いただきます、と言ってから、それぞれ好きなものに箸をつけようとする。が、ふとそこで飲み物の存在を思い出した。

「あ、乾杯するの忘れてた。最初だしビールでいい?」
「はい、ですがせっかくここまで用意してくださったんですから自分がお注ぎいたしますよ」
「はは、じゃあお願いします」

 わざわざ缶ビールをグラスに注いでそれっぽさを堪能しようとすると、茨はすかさずいつもの調子で腰を上げて私の隣に立った。私からグラスとビールを受け取り、綺麗に泡とビールが1:9くらいになるよう注ぐ。

 そして私の手にグラスを持たせると、一瞬だけ、体を屈めてキスをしてきた。あまりに突然でほんの一瞬だったものだから、頭が処理しきれずフリーズしてしまう。きょとんとしている私を見下ろして、茨は何故か煽るようなちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。

「殿下が突然オフを強要してきたのには驚きましたが、貴女の仕業だったんですね? おかげで明日はすることがなくなってしまったんですが……今夜はもちろん満足させていただけるんでしょうね?」
「もちろん。たくさん甘やかしてあげる」
「せいぜい期待してますよ」

 グラスの端を当てると、チン、と軽快な音がした。こんな煽り文句を言っておきながら、茨はベッドに入るとすぐに深い眠りに落ちてしまったのだった。